三条大橋の夜間景観づくりの実証実験から、 歴史の檜舞台・三条大橋の歴史を想う

土居好江

   2024年1月16日午後6時30分三条大橋の南側から撮影。
翌朝の京都新聞朝刊の1面には逆方向から撮影画像が掲載されていました。


擬宝珠の刀傷

駅伝発祥の碑

 2024年1月16日、午後6時30分に点灯した時は、暗い夜道が明るくなって安全になったと感じました。明るい鴨川が浮き彫りになって、更に温かい黄色のライトが優しく点灯して、川の流れる水の音と光で、普段とは異なる風景です。

   京都市京北や鞍馬の檜で高欄を新調し 修復工事が完成しました。日本古来の模様である麻の葉模様の防護柵等、京都に相応しい雰囲気を醸し出しています。

 この辺りをご案内する時に、いつも申し上げていることがあります。平安時代は三条通は、平安京の三条大路にあたり、貴族の邸宅が建ち並ぶ都の中枢部であり、その後、豊臣秀吉が天正18年(15 90)に三条大橋を造り、東海道の起点となり、江戸時代は京の玄関口と言われました。旅人を迎え入れ旅立つ人々などでにぎわいました。

   この三条橋の最初にかけられた年代は明らかではありませんが、室町時代には既にかかっていたようです。天正十八年(1590)豊臣秀吉はその家臣・増田長盛を奉行として改造させています。欄干の擬宝珠に、このことが刻まれています。

   また、南側の西から2つ目の擬宝珠には、刀傷跡がのこされています。元治(げんじ)元年(1864年)6月5日の池田屋事件での傷跡と言い伝えられています。ちょうど、祇園祭の宵宮(宵山)で近藤勇の手紙に次のようにあります。「ご守護職、御所司代、一橋殿、彦根、加州等の人数三千余人出張」とあります。あの三条界隈に、こんなに多くの人が三条、四条界隈の大捕り物に繰り出したことがわかります。

   近藤勇が「御用お改め手向いいたすにおいては容赦なく切りすてるぞ」と大声で一括して、一同の者は恐れおののき後へさがった」と永倉新八の手記「浪士文久報国記事」にあります。この永倉新八の手記では、たった四名(近藤勇、沖田総司、永倉新八、藤堂平助)で突入し、志士ら二十数名と激突し、志士数名を斬り、残りの志士を捕らえたと記されています。激戦の最中、土方歳三が一隊を引き連れ加勢して、新選組は一人の戦死者もださなかったと伝えられています。

   この一連の報告は松平容保から孝明天皇に伝えられ、「池田屋事件感状」には「上様(孝明天皇)ニもご満悦ニ」とあり、褒賞金として、朝廷から百両、幕府から五百両、合計六百両が新選組に下賜されました。

   近代では駅伝発祥の三条大橋として大正6年(1917)4月27日から3日間「鄭都五十周年記念大博覧会 東海道駅伝徒歩競争」のスタート地点が三条大橋です。三条大橋から東京上野不忍池の博覧会正面玄関まで516キロを23区間に分けて東軍と西軍の2チームが3日間、昼夜走りぬいた競争でした。ちなみに三条大橋の真ん中からのスタートでした。

   歴史のロマンが詰まっている三条大橋、是非とも散策なさってください。

以上

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