京都の引力35 祐斎先生を偲んで
祐斎先生を偲んで
黄櫨染(こうろぜん)は何故、天皇しか着用できないのか
お茶室のようなトイレ・嵐山祐斎亭
土居好江
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嵐山祐斎亭 2026年2月8日撮影 傘のトイレ 金魚のトイレ

2022年3月29日撮影 嵐山裕斎亭 川端ルーム
川端康成が『山の音』を執筆した書斎に、桜を活けた桜雲(おううん)
(祐斎先生の発案)

2021年8月24日 祐斎先生が大堰川で獲った鮎をご馳走になる
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2021年8月24日嵐山裕斎亭(山の音、川の音が聞こえる静寂さを堪能)
2月のある日、嵐山祐斎亭にお伺いしました。寒い日でした。祐斎先生のご令室・恵美様にお会いするためでした。祐斎先生が昨年亡くなられて、本当に寂しいことです。
染色アートギャラリーは休館中でした。4月からリニューアルオープンです。唯一、お茶室のようなトイレと来客用の座敷だけが使用できて、あとのお部屋は修復工事中でした。
私が祐斎先生とお出会いしたのは2001年に京すずめを立ち上げて、京すずめ学校の「京都水物語」のカリキュラム「京都の水から世界一流ブランドづくり」という講座の講師としてお出ましを賜るためにお伺い申し上げました。
2001年の秋、高台寺の近くの工房をお尋ねして、ご紹介者の方と3人で5時間半、話が弾みました。
限りなく太古に近い水をつくることで、平安時代の染・黄櫨染(こうろぜん)の復元に成功した祐斎先生は、最初に限りなく太古の水に近い水を作ることから着手されました。素焼きの甕に備長炭と牡蠣の貝殻を入れて水を作ります。
その水を飲みたいと飲ませて頂いたこともありました。京都の水道水・地下水から作られていました。京都の地下水はまろやかで、低温で濃く早く染まるそうです。これが京都で染色工芸が発達した理由の一つです。
平安時代から天皇陛下が即位の礼などの最上位の儀式で着用する装束は「黄櫨染(こうろぜん)」と呼ばれ、太陽の光により、表は、金茶色から茜色、内側は、太陽のように「真っ赤(真紅)」に見える絶対禁色とされています。
平安時代の延喜式に延喜18年(918)に黄櫨染を着するのを禁止されたとあります。私は長年、何故禁止されたのかがわかりませんでしたが、祐斎先生のお話で腑に落ちました。
嵯峨天皇が弘仁11年(820)に重要な儀礼や会議の際は天皇のみが黄櫨染の衣を着用する」と詔(みことのり)を述べ、この時から、黄櫨染という色名が知れ渡り、一般庶民の一大ロイヤルブームとなったのです。現代と同じですね。
その後900年代に、この黄櫨染の色を着ることが都で流行り出し、庶民にこの色を着すことを禁止したのです。この時から黄櫨染は絶対禁色と言われるようになりました。光があたると色が変わり、輝くようへん色の特徴があります。
古代中国では皇帝が権威の象徴として、太陽の光が当たると更に輝く色を身に着けていました。それに倣い、日本でも嵯峨天皇以降、黄櫨染は天皇だけが着用できる色となったのです。
この講座の前には工房をフィールドワークでご訪問していましたので、受講生もその黄櫨染を理解していました。以降、工房は何か所か移転されて、現在の工房を嵐山に見つけられたのでした。
そこに移転される前に、何故かトイレ談義になり、清水焼の絵付けトイレを作っている友人をご紹介して、お茶室のようなトイレが嵐山で完成しました。私は何回か「京都至宝の雪隠ツアー」を企画して、ここをご訪問先にさせて頂いています。もちろん、染の講座では、何回もご訪問させて頂き、東京都の視察団をはじめ、川端康成記念会の理事長・故川端香男香氏をはじめ、数多くの方々とご訪問させて頂きました。川端康成先生が『山の音』を執筆されたお部屋にもご宿泊されて、祐斎先生と交流をはかられました。
祐斎先生は天才的な直観をお持ちで、ハワイで約3ケ月、お金を使わなくて生活された自給自足を体験されています。大堰川の鮎獲りも、このご経験からでしょうか。鮎の干物や鮎料理も沢山ご馳走になり、愉快な思い出が沢山あります。どうぞ、あの世から、恵美ちゃんや工房の方々、お弟子さん、京すずめをお見守りくださいませ。
以上





