京都の引力27 

地震と活断層1
活断層の怒りを鎮めるという発想の座禅石・銀閣寺                                    土居好江

 北海道・青森東北沖地域で地震の被害に合われた皆様に心よりお見舞い申し上げます。

2011年11月4日被災地支援 
相馬市立向陽中学校での京すずめ学校 


銀閣寺 書院 東求堂前にある座禅石 

 地震国日本の歴史は、ある意味、昔から自然との付き合い方を熟知したものでした。特に京都は、活断層運動によってつくられた山に囲まれた京都盆地にあります。その山の中腹の活断層の割れ目から湧きいでた水の名所に神社や寺が建立されています。京すずめでも何回か活断層地図を片手に、フィールドワークさせて頂きました。

 銀閣寺(東山慈照寺)は京都の東北、鬼門にあり、お茶の井泉の湧き水があります。このお茶の井泉は断層沿いにあり、すぐ北側には小川があって、大雨の時によく氾濫したと伝えられています。現在は上流に砂防堰堤がつくられて氾濫はなくなりました。

 このあたりは滋賀県朽木から鯖街道沿いに花折断層が走っていて、銀閣寺近くの花折断層は雁行・枝分かれして銀閣寺の庭園の東側を走り、法然院を通り南下しています。この断層が頻繁に動いたのは西暦800~1700年の間で、被害も大きかったことが判っています。

大きな地震を繰り返して花折断層の破砕帯は侵食されて谷になり、その谷沿いの道が「鯖街道」と呼ばれるようになりました。また、その峠を越えるときに修行僧が樒の枝を折ったことから花折峠という名前が付いて、それにちなんで花折断層と呼ばれています。樒は仏教では花と呼びます。

 銀閣寺の東求堂の前にある錦鏡池の中にある坐禅石や池の側にある弁天堂は、この断層を鎮めるために置かれたものと言い伝えられています。特にこの断層の地表近くで小断層に別れ、枝分れした断層が上下に動いた跡が見られ被害が大きかったことが判ります。

 このように活断層の怒りを鎮めるという発想が足利幕府の時代にあったことこそ、自然と人間の関係が同じ目線にあったと推察され、感動さえ覚えます。

 銀閣を建てた足利義政は8歳の時に将軍職に選出され、元服を迎えた15歳で正式に征夷大将軍として任命されました。肖像画を拝見しても何か哲学者のようです。

 銀閣寺は銀箔を貼る計画があったという事実はありませんが、江戸時代に『洛陽名所集』というガイドブックで東山慈照寺という名前ではなく銀閣寺が案内されて一気に広まりました。金閣寺に対して銀閣寺というネーミングが大当たりしたのです。

 銀閣寺の銀紗灘や向月台のあたりは池だったようですが、白川沙が流れ込んで、江戸時代、この砂で銀遮断と向月台をつくったといわれています。

以上

Pocket