京都ならではの不祝儀・黄白の水引から京文化のエッセンスを探る(前編)
~東京発の黒白は武家文化の生死をはっきり区切る文化
本来の京都の黄白の水引は公家文化の悲しみを和らげる色の文化~
土居好江
奈良時代創業の源田紙業の結納の水引
2006年3月19日開催の京すずめ学校
於 西本願寺門法会館
講師は源田善郎氏
本来の結納の水引の写真
2024年3月3日の京都新聞に「京都本来の黄白の水引が、仏事に使われなくなっている」との記事が掲載されておりました。確かに最近では、京都でも黒白の水引を使う方が多くなっています。このブログでは、京都では何故、黄白の水引を使っていたのか、歴史を辿ってみたいと思います。
「京すずめ学校」での講座、2006年3月19日に「京都木気物語」のカリキュラムで「水引の文化史から学ぶ」という講座を開催しました。講師は源田紙業(株)の取締役社長 源田善朗氏です。創業は771年(宝亀2年・奈良時代)。現在は営業を停止されていますが、現在も会社として存在しています。源田さんはオーストラリアに住まわれていて、日本にご帰国された時に、講座を担当して頂きました。
水引の文化史について、ご教示頂いたことをご紹介させていただきます。人は一生を過ごすのに、子どもができた帯祝、出産祝、お宮参り、お食い初め、初節句、七五三、十三参り、入学、卒業、結納、結婚、還暦、古希(70歳)77歳(喜寿)、80歳(傘寿)、88歳(米寿)、90歳(卒寿)、99歳(白寿)百斎
(百賀)等、日本人は、けじめにお祝い事をするのが大好きな民族です。水引そのものは、ただの紐ですが、白赤に染め分けられたものが原形です。
この水引は、言い伝えによると7世紀の初め、(飛鳥時代)小野妹子が隋からお土産を頂いた時に赤白に染め分けられた麻紐にくくってあったようです。これがルーツではないかということです。
当時の麻ひもは「くれない」と呼ばれていました。平安時代に編纂(へんさん)された延喜式に「伊奈郡より草紙献上」とあるのが記録上の初見として残っています。
農耕文化の日本では、祭祀の折に神のお供え物に藁(わら)などを束ねて結ぶ風習があったように結ぶことに意義があり、魂を込める心を込めるという意味があります。
この遣隋使の影響を受けて、貴族間や宮中への貢物には紅白の麻紐をかけることが習慣となっていったようです。語源として紅白は、太陰暦の陰と陽を表しており、神聖な地域と一般社会とを区切るため、仕切りに紅白の水引や幕や漲り水を打って引き締めることから水引と呼ばれています。また、平安時代の宮中で始まった贈答品の装飾用として考案された紅白の水引は、当時、最高級の口紅を染料に用いられたことから「くれない」と呼ばれたとも伝えられています。
また、水引は宮中だけで使われていて、こよりは女官が宮中で作っていました。こよりを作る時、つばで絞めて作るため、女官の口紅がついて赤くなったという説もあります。
こよりは胡粉を塗って真っ白にして、胡粉とにかわで30尺(9ミリ)のものをつくり、糊をしめて引いていくのが語源で乾かないように水で引いていきました。平安時代、貴族たちは和歌を楽しむ折に「くれない」を紫や黄に染めて歌集の綴じ紐に使うようになります。この麻紐が紙の紐になるのは室町時代頃からだと言われており、江戸時代に入ってからは庶民にも普及していきました。
後編は次週に続く