京の春・「都をどり」と京の近代化Ⅲ  舞妓さんのルーツとお茶屋のルーツ

土居好江


祇園大政所絵図 

祇園大政所絵図 
枝を払い生木の柱にむしろをかけ仮屋根をあげたままの門前茶屋 
一勇斎国芳,上州屋重蔵『大日本六十余州之内  歌川国芳 が描いた出雲阿国』(国立国会図書館所蔵)「国立国会図書館デジタルコレクション 四条大橋の東 の阿国像(2023年2月27日撮影)

 随分昔のこと、30年ぐらい前に、祇園の舞妓さんとお話して、「祇園甲部の舞妓は天皇の前で踊ることができるんどす」と申され、舞妓の世界でも、そういう棲み分けがあるのかと驚かされました。令和の時代はどうなのでしょうか。京都の五花街(上七軒・先斗町・宮川町・祇園甲部・祇園東)の芸舞妓の数も減っているので、そういうことを申す方はおられないかもしれません。

 石原都知事時代に東京都から、京都視察のご依頼があり、さまざまな京都の伝統産業を東京都に活かせるものはないかと、ハードな日程でご案内をさせて頂いたことがあります。その中に、花街の活性化、懐事情を知りたいという案件がありました。

 そこで、宮川町の舞妓さんのお見世出し(舞妓のデビュー)に立ち会ったことがあります。この時、京都出身者以外の方が憧れて舞妓になるケースが多いことを知りました。北京生まれの舞妓さん、大学を卒業して商社勤務を経て、芸妓さんになった方など、とても貴重なお話をさせてもらって、一種独特の世界で、日本的な家族のつながりが、この世界に残っていることを知りました。

 普通は中学時代か卒業後に置屋に住み込み、そして仕込みさんと呼ばれる修行時代からお見世出しのデビューまで、伝統の世界に馴染むよう躾けられて、京言葉の習得、礼儀作法や芸事を習い、一人前になっていきます。全体の空気を読み、最高のおもてなしができるように成長すると共に、芸事に励みます。

 「祇園感神院」という名の比叡山延暦寺の末寺としてにぎわった八坂神社は、祇園の町の北側に位置し、「祇園さん」の名で親しまれていました。その祇園の舞妓さんのルーツは 江戸時代の初めに、この祇園さんや清水寺への参拝客や花見客の休憩所としてできた水茶屋が祇園の起源です。

 歌舞音曲でもてなす女性のルーツは、平安時代の白拍子(しらびょうし)に見られます。また、江戸時代の出雲の阿国も日本初の女性アイドルともいう存在でややこ踊りで一世を風靡した女性です。

 16世紀八坂神社に参詣する人々にお茶を提供する水茶屋が茶菓子や酒、さらに歌舞音曲をも提供してもてなす茶屋が出現し、それを専門にする芸妓が現れ、17世紀なかばには百軒を超える茶屋がありました。これが祇園のルーツです。明治になるまでは祇園甲部も祇園東も一つでしたが、政府が甲部と乙部に分けて、乙部が祇園東の名称に変わりました。

 京都の五花街(上七軒・先斗町・宮川町・祇園甲部・祇園東)で一番歴史のある上七軒は室町時代に北野天満宮を再建した折、余った木材を払い下げてもらい、建てた七軒の茶店から、上七軒と呼ばれることになりました。秀吉が北野天満宮で大茶会を実施した時に、この茶店が休憩所となり、茶屋の営業権が与えられ、17世紀前半には幕府から許可がおりて花街として発展していきました。
 水茶屋では夜に酒と料理を出すようになり、やがて、現在のお茶屋の始まりとなる夜専門の店ができます。やがてここで働く女性が三味線を弾いたり、舞を踊るようになりさらに街は発展していきました。

 その賑わいはどんどん広がりを見せ、四条の祇園辺り一面が畑だった新橋付近にもお茶屋が立ち並ぶようになり、ついに1800年代の初め、文化・文政年間に隆盛を極めました。

以上

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