京の春・「都をどり」と京の近代化Ⅱ

 土居好江


島津源蔵翁   

島津製作所創業記念資料館

京都御苑で気球を揚げた様子

 祇園のお茶屋さんの前などを通ると、時々三味線の音(ね)が聞こえてきて、足を止めることがあります。小学生だった娘が突然、「三味線が習いたい」と言い出して、二人で、お稽古に通ったことがあります。娘はピアノも楽譜を見なくても、音を拾うだけで弾ける音感の良いタイプ。私は音痴で音感も悪く、なかなか上達できませんでした。お師匠さんが病気でお休みとなり、それきり、お稽古は中断しましたが、お師匠さんから「お母さん、お嬢ちゃんは上達していますよ、けどお母さんは音が取れませんね」、といつも叱られていました。

 その三味線の音が響く都をどりの雰囲気は、京都の一つの文化の響きを代弁しているように思います。心地良く、リラックスできるのです。都をどりは娘が幼稚園の時から大好きで、公演が終わっても、帰らないと言い張り、その後、立ち見で鑑賞したこともあります。

 宝塚歌劇へお伺いした時、幼稚園に通っていた娘は、開演して5分で「帰りたい」と言い出して困ったことがあります。カルチャーショックを受けたのでしょう。長年京都に住んでおられる人は三味線の音など、祇園囃子や鐘の音等が遺伝子に組み込まれるのでしょうか。

 千年の都の遺伝子が土地の記憶、文化の記憶と一緒に皮膚から入り込んでくる皮膚感覚を感じます。伝統芸能と近代化の産業技術の進化のバランスが絶妙だったのは、京の職人は「見覚え、聞き覚え、見て習え」の方程式で技術を習得します。暮らしそのものが一つの修行だったのでしょうか。

 名人と達人の違いは、究極を究めることですが、そういう達人が明治時代には京都に沢山おられたようです。

 明治維新初年は戊辰戦争で、あちこちが焼け野原となり、天皇も東京へ移転され、京都人は自分たちで新しい世の中をつくろうという想いで燃えていました。

 鴨川の二条にある現在のザ・リッツ・カールトン京都の近くに京都舎密局(せいみきょく)が明治3年できて、日本の近代化推進が図られました。島津源蔵翁は仏具の金物加工の職人でした。目と鼻の先に京都舎密局ができて、いつもどんなものかと、見に行くようになり、修理の依頼があり、そこから、好奇心の強い島津源蔵翁の挑戦が始まりました。

 島津源蔵はドイツ人技師・ワグネル博士、オランダ人技師・ヘールツ博士と出会い、そして、日本人技師等に質問しては、ご自分で工夫されたとお聞きしています。

 ワグネル博士からは理化学器械の製法や、ドイツ製足踏み式木製旋盤の操作法を学びました。島津源蔵翁は、「どうやってつくるのか」「どんな構造になっているのか」等質問攻めで習得した技術でもって、日々研究して外国製に劣らないものを完成させました。その後理化学器械を小中学校に提供できるようになったのです。ゼロからの研究で完成させました。

 京都の近代化の先陣を切った島津源蔵翁が仏具商という伝統産業出身者であることも、京都らしいエピソードですね。

 仏具商で、細かい細工等が得意だった島津源蔵翁が、最先端の技術を急速に習得していったことは想像できます。そして、明治10年(1877)12月6日、京都御苑の5万人の見物客が見守る中、日本初の有人軽気球飛行を高度36メートルまで揚げて、大偉業を成し遂げました。使われたのは水素で、伏見の酒の四斗樽10本に鉄くずをいれて、希硫酸を注ぎ、大量の水素を発生させて飛ばしたそうです、この時の様子は島津創業記念資料館に展示されています。何回拝見しても感動します。

 また、京都御苑での有人飛行の入場料は大人一人三銭(一銭は現在の200円換算で、600円の入場料になります)、子どもはその半分の入場料を頂き、その売り上げを次の研究費に当てました。

 近代産業の先陣を切った都をどりの舞台をライトアップして日本初の舞台のライトアップという歴史を作ったように、再び新しい世の中をつくり直そうという気概で京都を盛り上げていきたいものです。 
以上

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