夕焼けの向こうに

最近、夕焼けを見る機会があまり無かったので、夕焼けの美しさに、思わず写真を撮りました、9月20日の紫色の夕焼けです。空気の透明度が高い時、紫になります。写真ではわかりにくいのですが、紫色の夕焼けでした。

頼山陽が鴨川から東を見て山紫水明と言う言葉をつくりましたが、まさに、この山が紫に染まるというのは、夕焼けのできる時刻のことを指しています。現在では形容詞として使われていますが、頼山陽は手紙に「山紫水明の頃におこしください」という手紙を書いたのがはじまりです。

 随分昔のはなしですが、ちょうどお彼岸の休日の2001年9月に学術コンソーシアム設立記念のシンポジウムがありました。その時の哲学者・山折哲雄先生の講演を思い出したのです。たしか、「日本人のこころとは?」という基調講演でした。夕焼けの向こうにあるものは……、月の沈む向うにあるものはなにか、という内容だったと記憶しています。山折先生の講演は何回も拝聴しているのですが、平安時代に勝持寺(花の寺)で出家した西行法師が夕焼けを見た話しをなさっていたことを思い出しました。何回かお尋ねしたお寺ですが、桜も紅葉も美しい場所です。

川端康成先生の『古都』にも夕焼けが登場しますが、「夕焼けがない」という表現で東山の円山公園の料亭・左阿弥(さあみ)から見た景色が描かれています。筆者も左阿弥をお尋ねして、座敷から京のまちを眺めたことがあります。どういう訳か、この部分の風景を思い出したのです。夕焼けのないモノトーンのまちの景色が、どれだけ寂しいものなのかということを川端先生は描きたかったのではないでしょうか。昔の日本人は夕焼けに浄土を感じていたのか…と思いながら、夕焼けに見入っていました。コロナ禍の社会活動の自粛で空気の汚染も少なくなり、オゾンホールも小さくなって綺麗な夕焼けがみられるようです。

以上

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