2020年コロナ禍の祇園祭

 

2020年の御旅所、本来なら3基の御輿が安置されている

大丸百貨店のディスプレイ

2020年の山鉾巡行に変わる巡行2020年8月24日

今年は葵祭の行列行事、祇園祭の山鉾巡行も中止となりました。秋の時代祭も行列行事は中止です。それだけに、今年の山鉾巡行の代わりに神事としての最低限の巡行が行われました。毎年、行事がある事が当たり前だったお祭が無いというのは、寂しいものです。

祇園祭

京都では一般的に農耕のサイクルによって、年中行事が構成されています。その結果、春の田植え前と秋の収穫後に大きな祭礼が行われることが多く、しかも、長年、京都では“御霊信仰”の影響を受けて、平安時代より、この世に未練を持つ死者の霊魂や恨みを持つ死者が疫病を振りまくと考えられていました。

 御霊信仰は平安時代には牛頭天王(ごずてんのう)の祭と習合し、祇園御霊会として定着していくのですが、御霊会が春から夏の時期に行われるのは、一番疫病の流行りやすい季節だからであり、梅雨の時に、河川が氾濫すれば、伝染病の流行という二次災害をもたらしたからでもあります。

 この時期に災害や疫病の根源とされている御霊を祀り、京の町衆の平安を祈願したのが、祇園祭のルーツであり、八坂神社の役割でした。

 斎明天皇2年(656)に伊利之使主(いりしおみ)が高麗より来朝した時、新羅の牛頭山に鎮座するスサノオノミコト(牛頭天王)を祀り、その折、朝廷より八坂郷と八坂造(やさかのみやつこ)の姓名を賜り、それが八坂神社のルーツと云われている。筆者が調査した時、歴史学者の認識と神社の説明とは若干の年代差等がありましたが、

 貞観11年(869)のこと、全国的に疫病が発生したとき、これは政治的に失脚した人々の怨霊であり、「祇園牛頭天王の祟り」であるといううわさが広がりました。これを退散させるため、旧暦の6月7日、平安京で一番広い庭園であった神泉苑に勅を報じて、当時の国の数にちなんで66本の鉾を立てて祭を行い、

14日、洛中の男児が神輿を神泉苑に送って災いの除去を祈ったのが祇園祭の始まりと伝えられています。

 これは官の行った最初の祭ですが、斎明天皇2年(656)に高句麗の使い伊利之主(いりしおみ)が来朝した時から祇園祭は始まったと伝えられています。

井利之主は八坂の租という意味があり、八坂郷と称した地域名を考慮して祇園御霊会と呼ばれて、都の活力源となった祭でした。

 ちなみに、貞観11年旧歴5月26日(新暦7月13日)も貞観地震が起こり夜に陸奥国で津波が押し寄せ、溺死者1000人と『日本三代実録』に記されています。

 山というのは、山型を作って松を立て、人形を配するというもので、これは古くからあったといわれています。

 稚児が長刀鉾に乗るのは、鉾の上で稚児が舞いを舞ったという名残で、生稚児が乗るのは長刀鉾だけで、他の鉾は人形が乗っています。

 明治以前は6月7日に山鉾巡航があり、14日にも別の山鉾巡航があり、先の祭と後の祭が2回あり、長らく1回の山鉾巡航となっていましたが、近年後祭が復活しました。

 不定期だった祭も天禄元年(970)からは毎年行われるようになり、長保元年(999)には作り山を立て、南北朝には、ほぼ現在の山鉾の形が出来上がったと伝えられています。

 鉾は動く美術館としてモノづくりの技を競いあうデモンストレーションの意味合いもあり、懸装品には、遠くペルシャら輸入されたのもが鉾に飾られ、いわば、見本市のパレードでもあり、現在もこの伝統は息づいて、見事な懸装品は鉾町の宝です。

以上

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