F.NO.1:京都フェノロジーカレンダー2022年4月7日号

  4月から、毎週木曜日、京の楽しみ方・京都フェノロジーカレンダーのブログをアップさせて頂きます。京の自然と季節を楽しみ、暮らしに根付いた祭や行事と京都らしさを深掘りします。季節を楽しみ、それに関連する京の楽しみ方をご案内申し上げます。京都を皆様とご一緒に楽しみましょう。どうぞ、よろしくお願い申し上げます。
土居好江

桜づくし
京の春 桜の楽しみ
3月24日、京都気象台は桜の開花宣言をして、4月初めには七分咲きの桜です。いよいよ春ですね。
4月に満開となる桜、日本に住む私たちは、毎年あたりまえのように桜を楽しみます。「最高の贅沢は4月に日本の桜を楽しみ、5月にイギリスの薔薇を楽しむこと」、とあるフランス人からお聞きしたことがあります。
この写真は嵐山・祐斎亭のお座敷に竹筒に入れられた50本の桜です。50本が塗りの机に映り百本となります。

お座敷百本桜(嵐山祐斎亭・川端康成の部屋)撮影2022年3月29日

マスクをしていると春の匂いを嗅ぐことができませんが、大堰川の川の音、山の音を楽しみ、桜を愛で、そして、花見の弁当を楽しみましょう。この嵐山祐斎亭は川端康成先生が『山の音』を執筆されたお部屋でもあります。元料理旅館「千鳥」が現嵐山祐斎亭です。
 何回も山の音、川の音に聞き入ったことがあります。五感を削ぎすまして、お楽しみください、大堰川から徒歩8分、桂川沿いに上流へ。染色作家のお屋敷にあります。嵐山の新名所となるでしょう。

春を楽しみ、春の食を楽しむ

 お花見と言えば、「花より団子」が象徴するように、花見団子と花見弁当ですね。京都には江戸時代からのお弁当箱を展示する「お辨當箱博物館」があります。

半兵衛麩本店(鴨川五条大橋東)2階 お辨當箱(べんとうばこ) 博物館(今秋、リニューアルオープンの予定)

江戸時代の花見弁当は「提重(さげじゅう)」と呼ばれる重箱の弁当箱で、料理だけでなく食器や酒器を組み入れたもので、江戸時代には良く使われていました。手に提げて持ち運びできるようになっています。
重箱の中身はさまざまですが、江戸時代の『料理早指南』には、豪華な弁当にはかまぼこ・玉子焼き・焼きおにぎり・刺身・きんとんなどが入っていたようです。

『料理指南書』提重

『料理指南書』花見の提重

お辨當箱博物館の展示品 花見の提重

お辨當箱博物館の展示品 夏用提重

矢尾定特製・竹籠御膳 日本酒は「京都の恋」という酵母菌で作られた松井酒造・神蔵純米 五紋神蔵KAGURA 無濾過生原酒(クリア・京の恋酵母)陶器は雲楽窯・西澤瑞穂氏の作品

三色団子とお抹茶 塩芳軒

何故、梅から桜へ花見の花が変わったのか

古代中国では梅が花見の定番で、奈良時代は梅が日本の花見の定番でした。これが寛平(かんぴょう)6年(894年)に菅原道真の意見で、遣唐使の廃止等の影響もあり、梅から桜の花見と変化していきます。一斉に咲いて、一斉に散るという桜は花が下向きに咲くのです。また、桜は苗代作りを知らせることで農家の人々にとっても、季節を知らせる花でした。

此花之咲耶姫・木之花開耶姫(このはなのさくやひめ)

 『古事記』や『日本書紀』には木花之開耶姫(このはなのさくやひめ)と記載されており、元来は野山に美しく咲く桜を「さくや」と呼んでいたものが「さくら」に変形したものと思われます。

 『万葉集』には桜を詠んだものが41首、萩が140首、梅が118首と桜より梅が当時の人々の心を捉えていたと考えられます。花を美的鑑賞として楽しむ文化は中国から伝わり、桜が注目を集めるようになったのは、弘仁3(812)年、嵯峨天皇が神泉苑で桜を鑑賞した頃からだと伝えられています。

 この時、文人たちに詩をつくらせたという記載が『日本書記』にあり、梅から桜に花見の主役が交代しました。

 内裏の正殿である紫宸殿の左右の梅が桜に植え替えられたのも、桜の文化が日本人の心に、なじんだと考えられます。

 御所の敷地内に嵯峨天皇のお気に入りの桜が開花したのを記念して、桜の下で歌会や舞を踊る宴が貴族の間で流行り、毎年盛大な花見が行われ、この花見の文化が世界に例のない日本独自の文化となりました。

 花見にあたる言葉は英語、フランス語、ドイツ語には見当たりません。ハイキングでもなく、英語ではgo to see the cherry blossoms  となります。

咲く桜・散る桜

 桜の季節、四季のある日本では冬の厳しい寒さから解き放たれ、満開の桜が新しい季節の扉を開けてくれる合図をしてくれているようです。

 桜が咲くと淡いピンク色に染まり、散るとあたりを白く包み込む桜の温かい心を感じます。

 平安時代は貴族の楽しみが鎌倉時代には武士階級にも広がり、安土桃山時代、寺社等に多くの桜が植えられ、秀吉が醍醐三宝院で開催した花見は有名です。その時に多くの桜の木が移植され花見の宴が行われ、秀吉は縄張りと言って庭園の設計も自ら行いました。秀吉時代のクローン桜が春になると花を付けます。

戦国時代には桜は「死人花」と呼ばれたと言い伝えられています。合戦で亡くなった遺体を桜の木の下に置くと、霊を浮かばれるという言い伝えがあり、散った桜の花を暖かい心で清掃することで、さらに霊が浮かばれると信じられていました。

 桜に関わった人は、その不思議な力を感じるようです。例えば、醍醐三宝院の襖絵を7年かけて描いた日本画家・浜田泰介先生は「私が描いたのではなく、何かに描かされていた。どうしてこんな膨大な絵を描いたんだろう」とその不思議な力を全身で感じたといいます。

 桜の色彩は紅葉の色彩と同じく、木々の輝く光彩で包み込んでくれる。文化の始まりと色彩の使用は同時であったとも言われています。

桜伝説・花見のルーツを探る

 古代の日本では、普段は山に住んでいる神が山里から降りて人里へ降りてくる前兆現象と考えられていました。「サ座」と書いて「さくら」と読み、サ座は山の神(穀物の神)を意味し、桜が満開になると苗代作りの時期であると教える暦の役割をしていたと考えられていました。

 古代、人は山の峠を越えた時、その山神にむかって手を合わせて無事を祈り感謝しました。そこで、手向けが「たむけ」になり、「たうげ」が「とうげ(峠)」という言葉に変わり、山神に礼拝するのに立ったままでは失礼なので、しゃがんで合掌したと考えられます。「しゃがむ」という言葉は「さおがむ(さ拝む)」が変形して神を拝む姿勢から生まれた言葉であると考えられ、神様に祈願するのに酒をお供えして捧げるという意味があります。

 さ神の依る桜(サ座)の木の下で、さ神にさけ(酒)やさかな(肴)をささげておさがりを戴くということで、桜の下でお酒やご馳走を戴く習慣がありました。またお供えするだけでは、物足りないということで、歌を歌ったり、奉納舞を鑑賞するようになってきました。さ神の貴賓席が桟敷で庶民は地面の芝の上で鑑賞したので芝居という言葉が生まれました。

花見団子

 慶長3年(1598年)豊臣秀吉が醍醐三宝院の花見の宴の折、に招待客1300人に花見団子を振る舞ったのが、花見団子のルーツです。当時の団子は白い団子に醤油味のものが普通でした。この三色団子は秀吉時代から現在まで、広く庶民にも食されるようになりました。

この三色には、いろいろな意味があります。一般的にピンク、白、緑になっています。雪解けを待って新芽のでる頃を待ちわびていたという説がありますが、諸説あり、それぞれの解釈ができます。ともかく、春に頂く和菓子の定番です。

カレンダーチェック

日程 催し物 開催場所
 第一日曜 わら天神宮例祭  わら天神宮
神弓祭  八木神社
10日  桜花祭 平野神社
12日 水口幡種祭 伏見稲荷大社
第2日曜(13日) やすらい祭 今宮神社
吉野太夫追善花供養 常照寺
えんむすび祈願さくら祭 地主神社
豊太閤花見行列 醍醐寺
15日、16日 平安神宮例祭・翌日祭  平安神宮
中旬 嵯峨天皇奉献華道祭  大覚寺
18日 鎮花祭 出雲大神宮(亀岡市)
鬼くすべ  宝積寺(大山崎町)
18日・19日 ミッドナイト念仏in御忌  知恩院
第3土曜日 普賢象桜の夕べ 千本えんま堂引接寺(いんじょうじ)
 29日  曲水の宴 城南宮
下旬の日曜(24日) 松尾祭神幸祭
(まつのおまつりしんこうさい) 
松尾大社
4月1日~24日  11日は休演日 都をどり 南座
4月2日(土)~4月13日(水)  京おどり 京都府立文化芸術会館

以上

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