川端康成先生のお誕生月・6月 <4>

『山の音』を執筆された嵐山祐斎亭  

土居好江
京すずめ学校「京都愛物語」のオープニング講座「川端康成の愛した京都」で、川端香男里先生がご講演下さった内容をご紹介いたします。長文になりますが、心に遺しておきたい内容です。

 「川端康成が京都をテーマとした作品『古都』は、朝日新聞の連載小説として1961年~ 62年に掲載されました。その頃、康成は、複数の小説を同時並行に執筆していました。『千羽鶴』と『山の音』がそれであり、また、『古都』と『美しさと哀しみと』もそうで した。驚くべき筆力と言わざるを得ません。   

 康成の戦後の文学に係わる活動を述べます。まず、日本ペンクラブの活動です。日本 は戦争に負けましたが、日本に対しては批判ばかりで、誰も日本の良さを評価しません でした。そこで、康成は、文学という手段で平和に貢献したいと考え、熱心に活動しまし た。

 また、康成は美術品の収集にも熱心でした。戦争直後の物の無い時代ですから、没落 旧家の持つ美術品を買い集め、川端コレクションを作りました、このため、多額の借金を 抱え、一生借金だらけの人生でしたが、この借金を執筆のエネルギーに変えていた節が窺えます。    

 『古都』は、康成が下鴨に家を借り、そこで生活をしつつ仕上げた作品です。この作品の 解釈ですが、日本での評価は芳しいものではありませんでした。康成自身も「あまえっこ小説」と言っていましたが、ノーベル賞の対象となったのは、実はこの作品でした。 この作品が最初に外国語で翻訳されたのは、ドイツ語でした、北欧の人々はドイツ語を理解しますので、スェーデンの人にも分かりやすく、しかも当時は、都市を主人公した小説、すなわち都市小説というジャンルがあり、これがモダンとされていました。

 つまり「古都」は、モダンな美しい都市小説だとして、評価されたのです。さらに、 日本人自身が京都という古都を、どのように評価しているのかという文化力も問われ、『古都』はリアリズムの世界と対比的な、ファンタジーの世界を表現し、しかも多くの寓意、 比喩を含むものとして、外国で高い評価を得ることになりノーベル賞に結びついたと思われます。

  作品『古都』で表現されている美しい双子の娘は、花の精であり、桜の老木の幹の片隅 に咲くスミレの花、また、壷中の鈴虫も意味ある寓意として理解されたのでしょう。同時に古都京都の四季の移ろいを鮮やかに捉え、京都の歳時記でもありました。

 次に康成と東山魁夷画伯の関係に触れます。二人の交流は1955 年から 1962年に康成が亡くなる17年間でした。最初は魁夷氏が康成の美術コレクションを拝見したいと の申し出があり、以来、芸術家同士の頻繁な交流が始まりました。康成が 1962 年に文化勲章を受章した際には、魁夷氏よりその作品「冬の華」、これは『古都』の文庫本の表紙カバーとなっています。

 さらにノーベル賞受賞の際には「北山初雪」を贈られています。この二人の間でおよそ 100 通の往復書簡が交わされ、各地で展示会が行われています。 康成は、書簡の中で魁夷氏に、今のうちに京都を書いて欲しい、京都の姿はやがて消えるかもしれないと伝え、それが、東山画伯の「京洛四季」として、結実しました。 私が理事長を勤める「川端康成記念會」は、康成が全力を挙げて日本の美を守ろうと努力し、貢献を行ったことを後世に伝えたいとの思いで、設立したものであり、美術品、書簡 の展示などを、全国各地で開催しています。  

 最後になりますが、著名な画家の安田靭彦も美術品のコレクターであり、良寛和尚の作 品の収集家でもあり、康成と情報交換をしていました。康成は、ノーベル賞受賞スピーチ「美しい日本の私」で良寛の辞世の句を引用し、 人は死んだら何も残せないが、自然はあるがまま残ると語りました。この美しい日本の自然を残し守り、後世に、いかにして引き継ぐことができるのか、 これが川端康成の課題であったと考えるところです」

 北山杉資料館をお借りした会場での香男里先生のお話は、16年前の2008年のことですが、今も鮮明に覚えております。京都をこんなにも理解して発信して下さることが嬉しくて、嬉しくて感動して心が躍ったこと、嬉しい思い出です。康成先生と同じ想いで、これからも京都の素晴らしを世界へ発信して参ります。

※『山の音』執筆の嵐山祐斎亭 入館料2000円

見学のご予約・ご案内 – 【公式】嵐山 祐斎亭 (yusai.kyoto)

以上

 

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