繁盛神社のお祭&班女塚

土居好江

繁盛神社2023年5月13日撮影

2023年5月13日撮影 烏丸京都ホテル1階スターバックス

繁盛神社の祭

 2023年5月13日、繁盛神社のお祭があり、お神輿が繁盛神社周辺を巡行して、太鼓の演奏が烏丸通りに鳴り響きました。関西最大の太鼓レッスン場が、四条大宮の南にあることをこの時初めて知りました。

四条烏丸通りを下がった一筋目に烏丸京都ホテルがあります。その1階のスターバックスのテラス席が、この日は午後から太鼓の演奏舞台となり、美女軍団が奏でる演奏が、空気を心地よく振動させていました。

 スターバックスにはのぼりがたっており、「奉納 繁盛神社」と書かれています。繁盛神社は高辻通室町を西に入った所に、平安時代からある神社で、「高辻弁財天 繁昌の宮」と記されています。正しくは「繁昌神社(はんじょうじんじゃ)」といいますが、その「繁昌」という名前の通り、商売繁盛、家内安全、良縁成就などのご利益があるそうです。町名も繁盛町です。

創建の年代は正確にはわかりませんが、平安時代、この地に藤原繁成(ふじわらのしげなり)の邸宅があって、その邸宅の庭にある池の中の島に田心姫命(たごりひめのみこと)、湍津姫命(たぎつひめのみこと)、市杵島姫命(いちきしまのみこと)の三姉妹の神様、「宗像三女神(むなかたさんめがみ)」を祀ったことが始まりだと言い伝えられています。その繁盛神社の北側に班女塚(はんじょつか)があります。

班女塚

 

 仏光寺通室町の路地を少し下がると、小さな祠と大きな岩が民家のガレージ横にあります。繁盛神社の北西徒歩1分の場所です。未婚の女性がこの前を通ると破談となるという言い伝えがあるそうです。

この塚の由来は『宇治拾遺物語』に記されています。烏丸高辻周辺に、平安時代、長門前司の2人の娘が住んでいました。姉は嫁いでいましたが、妹は未婚で、その妹が病で死んだので、棺桶を鳥辺野へ運んでいきました。しかし気が付くと棺桶は空っぽ、消えた遺体を探して戻ってみると、玄関先に遺体があったのです。翌日再び運ぶと 遺体が消えて、また玄関先に置かれていました。しかも今度は遺体を動かすことができないためこの地に埋めてしまったということです。

平安京時代に屋敷内(庭)に祀った弁財天が班女の由来です。またこの一帯が発展した江戸時代から音が転じて繁昌町と呼ばれるようになったそうです。

繁昌神社の北西の路地に「班女塚」があります。この付近一帯は寝殿造の屋敷があって班女塚の下には井戸があったと言われミステリーな物語が残っています。その後、姉は別の所に引っ越し、妹の亡骸が埋まっていることを気味悪く思っていた近所の人たちも、1人去り、2人去り、次第に誰もいなくなってしまいました。そして、長い歳月の間で寝殿造りの家は朽ち果て、不思議なことに塚だけが残ったのです。そして、いつしか、塚の上に社が建てられ、「班女塚(はんじょづか)」と呼ばれるようになったのです。

この話は鎌倉時代の初期、1200年頃に作られた説話集、『宇治拾遺物語』の第3巻の15話目「長門前司の娘が埋葬の時、本所に帰る事」という題名で記載されている話です。

繁昌神社も、班女塚の上にあったとされる「班女神社(はんじょじんじゃ)」が訛って、「繁昌神社(はんじょうじんじゃ)」になったとか…。縁起の良い名前ですが、塚の下に葬られた妹の恨みとも言える思いは今も消えずに残っているかもしれません。未婚の女性が班女塚の前を通ると破談になるという噂もあるようなので、結婚を控えておられる女性は、班女塚には近づかない方が良さそうです。

以上

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