納涼床(鴨川の夕涼み)1
土居好江
江戸時代の鴨川夕涼み |
明治時代の四条大橋 |
大正時代の美濃吉納涼床三条川端
鴨川は今では市民の憩いの場ですが、長い間、暴れ川でした。縄文時代には現在の寺町から東大路通までの約700メートルの川幅で、流路を変えながら南下したようです。現在は水位も川幅も小さくなっています。
松尾芭蕉は「川風や うす柿着たる 夕すゝみ」と詠み、与謝蕪村は、「すすしさや都を竪にながれ川」と詠んでいるように、昔から鴨川は夕涼みの場所でした。
「山紫水明の京都」とよく言われますが、山紫水明とは江戸時代後期に、頼山陽が入洛以来9年間に6回も引越しを繰り返して、終焉の地・鴨川の三本木に建てた「山紫水明処」という書斎兼茶室のことです。
もともと山紫水明とは時刻を表す言葉だったのですが、山陽の手紙に「山紫水明の頃お越し下さい」と友人を誘っています。季節によって異なりますが、ほぼ夕方4時頃でしょうか。水面が夕日に照らされて、キラキラ輝き東山が薄紫に染まる。この時間帯の鴨川も魅力的です。
暑い夏に鴨川で涼む習慣は、平安時代からあったようですが、川の中に床几を並べて夕涼みをするようになったのは、豊臣秀吉の時代です。裕福な商人が暑い京の夏に遠来の客をもてなすため、五条河原の浅瀬に床几を置いたのが始まりと伝えられています。
江戸時代初期の寛文2年(1662)頃には平安京の年中行事として納涼床が記されています。これは祇園会(祇園祭)の関連行事として四条河原一帯において大払いの神賑(かみにぎわい)として始まったもので、子供が昼には「河狩」に興じ、夕方からは大人が浅瀬に床几を置いて涼んだのです。絵図には行灯に灯がともり、団扇や扇子を持って涼んでいる様子が描かれています。(『都林泉名勝図会』参照)
また、もう1ヶ所、江戸時代には糺の森でも納涼床が行われていました。河合納涼(ただすのすずみ)と呼ばれ、御手洗川に床をだして賑わったようです。(絵図参照)
四条河原の夕涼みは旧暦の6月7日から6月18日、祇園祭の前祭(さきまつり)の期間で、糺の森の納涼は6月19日から晦日までの「夏越の祓え」にあわせて行われていました。
江戸時代の四条河原は歓楽街として栄えていくが、見世物や芝居小屋の興行地として、時には徒者(いたずらもの)やカブキ者が河原を闊歩し、阿国の歌舞伎踊が四条河原等で演じられた。
明治時代の納涼床は7、8月の2か月間設置され、四条大橋を中心に北は竹村屋橋(四条大橋より北へ200m程の所にあった橋)の少し北から、南は団栗橋(どんぐりばし)の南まで出されていました。現在は5月1日から9月30日まで、五条から二条まで設置されています。
大正4年の京阪電鉄鴨東線の延伸により鴨川左岸の床が姿を消し、治水工事のため流れが早くなり床几を川に置くことが禁じられ、右岸の納涼床は高床式に移行していきました。
昭和9年9月、室戸台風が淀川を北上して京都を直撃し、翌昭和10年6月には未曾有の集中豪雨によって大きな打撃を受けました。この時の鴨川の補修工事によって現在のミソソギ川が出来、その上に納涼床を設けるようになったのです。
昭和17年、第2次世界大戦による営業自粛、灯火管制、遊興の禁止等のため終戦の昭和20年頃には全く納涼床は行われませんでした。
戦後、昭和25年に数軒が床の設置を申請、戦後の反動で欄干を朱塗りにするもの、床の脚を舟型にするもの等、鴨川の風致を破壊したため、昭和27年、京都府土木部から「鴨川の高床について」の通達が出され、この時に鴨涯保勝会が誕生しました。
2008年から京都府鴨川条例に基づき、川床の規制が敷かれて、床の高さや材質、色彩等景観を重視して鴨川右岸二条大橋から五条大橋までの納涼床を審査し、景観づくりに関係業者や行政で取り組んでいます。また鴨川納涼床審査基準のガイドラインも定められました。
以上