納涼床(鴨川の夕涼み)Ⅱ

 

京都名所之内 四条河原夕涼 広重
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土居好江

鴨川の東西の花街 先斗町と宮川町について

 花街は寺社仏閣や港の近く、街道沿いの人の集まる場所にあることが多いのですが、京都では異なっています。京都の花街のルーツの一つに、豊臣秀吉の正妻おねに仕えていた歌舞音曲の技能に優れていた女性にあると伝えられています。更に西陣や友禅という伝統的な一流の技術に支えられた着物を身に纏い、洗練された一流の文化を背景に「もてなし」の精神で、伝統を受け継でいるのが京都の花街です。

 四条通南にある建仁寺は千年前に開かれ、この境内を取り巻くように市街地が形成されてきました。宮河、宮川とも書かれた地域は、江戸時代初期は河原であったと考えられていますが、祇園祭に神輿洗いが行われる神聖な場所で、ここに茶屋が立ち並び寛文10年(1671)の護岸工事が完成し、その後、宮川町の町並みができ、宝暦元年(1751)茶屋の営業が許可された。

 関ヶ原の合戦以後、鴨川の河原に芝居小屋が並び、この芝居を見にきた人のためにお茶屋ができたのが宮川町のルーツです。歌舞伎で「音羽屋」と声がかかるのは当時、宮川町にあったお茶屋の名前で、ここに歌舞伎役者が常宿にしていたことから屋号となり呼ばれるようになりました。

 また、先斗町の語源はポルトガル語の先斗=先端、ポントスによると言い伝えられているが定かではありません。鴨川と高瀬川の間、南北500メートルの細長い路地にあり、高瀬川(皮)と鴨川(皮)をはさんで鼓がポンと言う音がするのをもじって先斗町の名前が生まれたともいわれています。

 江戸時代、船運の盛んな先斗町は正徳2年(1712)に料理店経営許可がおりて旅籠や茶屋が立ち並んだと言います。当時は茶屋よりも旅籠宿が多く、宿泊客の世話をする女性が現れ、文化10年(1813)に芸妓取り扱い許可がおりて花街となりました。

貴船川の川床の歴史

 鴨川の川床を“ゆか”と称しますが、貴船は川床を“かわどこ”と“とこ”と呼ぶ。京の奥座敷と呼ばれる貴船には「水の神様」が貴船神社に祀られており、「床の間」と同じ感覚で、「川床(かわどこ)」と呼ばれるようになりました。

 貴船の川床の歴史は大正時代からで、業者さん達が涼むために、川で一服する際、ちいさな床机に座って足を洗っているところに、お茶や食べもの等を出して、もてなしたのが始まりと言われています。

 現在は川の上に床机を敷いたお座敷スタイルで、山の風と貴船川の流量が多く勢いのある水が涼しさを更に演出しています。

 昭和5年に叡山電鉄が開通すると四季を通じて賑わい、観光客も訪れやすくなりました。

 盆地の蒸し暑い夏を少しでも涼しくする京都人の智恵と工夫が、納涼床として鴨川や貴船川に定着しています。鴨川を歩くと「鴨川の夕日見たくて京都旅」という川柳をいつも思い出します。京すずめが公募している第2回京都への恋文の入賞作品です。

 鴨川が盆地の山々に囲まれて、京都らしい景色をつくりだしていることに感謝し、心と身体をリセットしてくれる憩いの鴨川を次世代へ遺し守っていきたいと願っています。

以上

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