長寿遺伝子
腹八分目で医者いらず、
腹六分目で老いを忘れる、
腹四分目で神に近づく
水野南北
摂取カロリーを25%減らした猿と満腹の猿を数十年間観察すると、カロリーを減らした猿は老化せず、若々しかったという研究があります。今、飽食の時代に長寿遺伝子の存在が注目されています。最近、日本が世界の長寿国の上位にある関係で、海外でも日本と当該国との食文化と生活スタイルの違いについて話題に上っています。
もともと、日本人は一日二食だったのです。一日三食になったのは安土桃山期から江戸初期で、人々の暮らしに定着していったと、江戸初期の彦根の武士の娘『おあん物語』には、昔は「昼飯など喰ふと言うは夢にもなきこと」だと記されています。武士の間では、一日二食の習慣が江戸初期まで続いていたことがわかります。
この『おあん物語』には朝夕は雑炊を食し、山へ鉄砲撃ちに行く時だけ菜飯が食されたと記されていて、お米中心の食事であったことが理解できます。
海外との交流を再開した明治の開国当初、アメリカ人が不思議がったことがあります。肉を食さない米食を主食とする飛脚が、何故あれだけの長い距離を走れたのか、草鞋の功用もあったようですが、米食中心の日本人には体力がありました。
江戸時代の大阪で活躍した人相見の水野南北(1757~1834)は、食事の内容が人生や人相を変えたと言ったことが伝えられています。
幼少期より不良少年で、わずか10歳で酒を飲み、盗みを覚え、喧嘩、博打、酒に溺れた生活をしていました。18歳の時、悪事を働き牢屋に入り、牢屋の罪人の人相が悪いことに気づき、自身も剣難の相がありと言われます。あと、一年の命というアドバイスを受け、出家を試みるも、あまりの人相の悪さから、断られます。
それで一大決心して、麦と大豆だけの粗食で精錬潔白な生活を1年間過ごすことによって死相が無くなり、人生を大きく転換できたというのです。
それからは人相学の修行のため風呂屋の三助を3年、火葬場では死者の相や骨格を3年間学び研究しました。死にものぐるいで研究したことにより、晩年には皇室の庇護を受けて、600人以上の弟子を持つまでになりました。
食事は麦一合五勺、一汁一菜、お酒は一合の粗食で過ごしました。食事の内容が運を決めるという結論に達して「運は食なり」という言葉を生み出しました。
江戸時代に、このような考えを実践した人が、現在の日本の飽食を見た時、何と言うでしょうか。食べすぎには気をつけましょう。