祇園の歴史とおもてなしのカタチ
土居好江
「祇園はどこから、どこまでですか」とよく質問されます。 京都にお住まいの方からも質問されます。祇園の範囲は南北は建仁寺の境から新橋通りまで、東西は東大路通から大和大路通までが祇園の範囲です。
祇園は当初は八坂神社の門前町として鎌倉時代から発生していったのですが、応仁の乱で焼け野原になってしまいました。しかし、応仁の乱から祇園会(祇園祭)が復興するにつれて、参詣人が増え、その参詣人目当ての水茶屋や水汲み女が出現したので、祇園のはじまりです。当初はお茶や団子の茶店でしたが、それが酒や歌舞音曲等を提供する現在のお茶屋に変化していきます。
江戸中期になると外六町(そとろくちょう)内六町(うちろくちょう)ができ、発展していきました。四条通に面した祇園町北側、祇園町南側などに始まり,寛文期に入って本格的な開発が行われるようになりました。
1670年(寛文10)ごろには大和大路沿いに、三条方面から町並が南下し、四条通南の団栗(どんぐり)の辻子(ずし)までの間に祇園外六町(そとろくちよう)〉が形成されました,
1713年(正徳3)には白川沿いに町が造成されて祇園内六町が出現します。四条河原にあった芝居小屋もすべて外六町のうちの中之町(なかのちよう)に移り,元禄期には四条通をはさんで5棟の芝居小屋が立ち並んでいました。
慶応3年(1868)には、ついに永代営業の許可が下り、ますます発展していきます。祇園が一番栄えた時期は明治維新の時で、舞妓178人、芸鼓560人でした。昭和の時代、昭和36年頃にはまだ舞妓51人、芸妓372人 令和の時代は芸舞妓の人数が衰退していきます。
現在では、祇園甲部の舞妓が27人、芸鼓27人、祇園東の舞妓が7人、芸鼓が11人と少なくなっています。(花街タイムズ2019年度)
京都にしか存在しない職業・配膳師
京都でしか職業として存在しない配膳師とは、京都独特のおもてなしのプ集団です。宴席、茶事、冠婚葬祭等を影で支える裏方の職業で、茶の湯で使う名水を前日に汲みに行くことも配膳師の仕事です。茶名、お菓子の内容も掌握して舞妓や芸妓を引き立たせる役目も配膳師の仕事で、宴席の総合プロデューサーでもあり、現場監督のような存在です。
最近は若い配膳さんもおられますが、その所作振る舞いは、目を見張るほどの洗練
されたもので、宴席を和やかに進めてくれます。私もこの配膳さんの振る舞いで学ん
だことが沢山あります。座持ちと会話を楽しむおもてなし(座持ちとは空気を読んでふさ
わしい振る舞いをすること)で、おもてなしの場を洗練させていく力量は空気を読む能
力が基本となります。これが祇園の女将さんの力量でもあります。
京都のご挨拶のカタチと京料理の盛り付け・引き算の美学
ご挨拶する時には膝をついて頭を垂れて、できるだけ身体を縮めるのが京都
の形です。かつて松下幸之助翁が、商人のお辞儀の仕方として、足の膝をくの
字にまげて膝に手を置くことを実践されていたように形として心を表すということが大事です。
京都の料理は地方の料理と異なり、小さく盛り付けます。地方は大きく盛り付け大
きく見せますが、京の美学は引き算の美学といわれるもので、上品に食べやすいように1寸に切り分けて盛り付けます。
以上