亥の子餅 ~江戸時代、お守りに使われていた餅 川端道喜さんの亥の子餅~
土居好江
2024年10月23日百味会展示 於:祇園歌舞練場 撮影
江戸時代に作られていた御玄猪餅
お守りとして持ち歩いた餅3色の餅
5年に一度開催される「百味会」の展示が今回も祇園歌舞練場で開催されました。10月23日にお伺いしましたら、十数年ぶりで川端道喜の第16代夫人・千壽子さんと再会しました。
ちょうど、2003年4月26日の京すずめ学校に、当時お元気だった第15代夫人安子様と常照寺住職の奥田正叡お上人様で対談をして頂きました。何回もご自宅へお伺いして、お話をお聞きして当日を迎えたことを、昨日のように覚えています。
京菓子の原点といわれる川端道喜は創業当初は餅屋渡辺を名乗り、以後、四代目から川端性を名乗るようになります。御粽司(おんちまきつかさ)川端道喜と名乗って以後、400年近くも天皇家に御朝物を献上された和菓子の名家です。
応仁の乱前後、乱世で御所も荒れ果て、天皇の食事まで不自由な時代となり、憂慮して元祖・道喜餅を作り、それを献上するようになります。この時、道喜は褐染(からぞめ)の素抱を着ていたので、宮中では餅のことを「かちん」というようになったとそうです。また道喜は餅を硯箱に入れて献上していたことから、これに倣って菓子は硯蓋に入れられるようになりますが、そのルーツは道喜の献上スタイルにあったと言います。
10月末から11月初旬にかけて販売される「亥の子餅」は炉開きや口切りのお茶事に使われます。もともとは天皇が御玄猪の儀式で、小さな臼と杵で小餅をつく真似をして小餅が公家に下賜されました。その碁石大の小餅は赤、白、黒と色が付けられ、お守りとして持ち歩かれたそうです。特に船旅に良いとされました。江戸に伝わると猪の多産にあやかって安産のお守りにすり替えられました。
天皇が小餅をつく所作と共に「おつくつく」と歌われ広まっていったようです。お餅のお守りとは、現在では想像もつかないのですが、11月の最初の亥の日、亥の刻(午後10時頃)に猪のような形の「亥の子餅」を食べると万病除けになると言われています。新米でつくられた餅に大豆や小豆、胡麻、栗、ササゲ柿、糖などをいれて作られています。
もともとは無病息災のおまじないで、平安時代に宮中で行われたのが始まりで、『源氏物語』では、光源氏と紫の上の新婚第二夜の場面で亥の子餅が登場しています。
以上