お餅と日本人 1


2012年1月1日 
おくどさんで雑煮を作る一和さん

2012年1月1日
一和さんの正月飾り

2011年12月29日

2012年1月1日元旦の取材

 

      土居好江

 京すずめのおくどさん未来衆のメンバーには、お餅を扱っているお店が2店舗あります。あぶり餅一文字屋和輔のご当主、女将さん、そして、天神堂のご当主です。二つのお店は共におくどさんを使用されています。あぶり餅一文字屋和輔さんは今宮神社の参道で、天神堂さんは北野天満宮の東門の前にお店があります。

 あぶり餅一文字屋和輔の茶店は世界最古の現存する茶店です。西暦1000年(長保2年)創業の茶店です。コロナ禍でトルコのカフェが閉鎖されて、京都の同じ場所で同じ製法で一品種だけを提供してきたあぶり餅一文字和輔の茶店では、井戸の水もおくどさんも千年以上受け継がれています。

 ご当主は語ります。「あぶり餅のルーツは、初代一文字屋和輔が、香隆寺(現在は廃寺)にお供えしたおかちん(勝餅:かちもち)を新しい神社・今宮神社にお供えしたのが始まりと言い伝えられています。疫病退散の祭事で奉納されたかち餅のお下がりを竹串に刺して焼いて食べていた香隆寺がルーツとなります。

 あぶり餅一和の創業は平安時代、西暦1000年、神様の前でお供えして下げて頂くので、神さんごとの家業です。神社さんの附属物というコンセプトで運営しているので、男衆は外で働き、女衆が店を仕切っています。

 ですから、ご奉仕という姿勢を創業以来貫いています。応仁の乱の時も炊き出しをして、皆様に食べて頂きました。神さんごとの家業ですから、お客様のお申し出の皿の数で現金商売をしております。『枕草子』や『源氏物語』にも風景描写であぶり餅一和のことが描かれています」と。

 

 歴史を紐解くと日本には、縄文時代に稲作の技術が伝わり、餅も伝わったとされています。当時はいまのような白い品種ではなく、赤米であったようです。赤米は粘りが強く、炊くともちもちとして、まとめやすく神様へのお供え物として発展してきました。

古墳時代後半には、土器による蒸し器が見つかっていて、古墳時代には現在とほぼ同じような製法で餅は作られていたようです。

 鏡餅は歳神様へお供えして、元旦に歳神様をお迎えして、去られた後に「おさがり」として鏡餅を分けて頂戴する習慣が、古くからありました。それが鏡開きの行事で1月11日が全国的な日程ですが、京都では、1月4日、関西では1月15日に行います。この日に「どんどん焼き」「どんど焼き」「左義長」と呼ぶ火祭りを行い、正月飾りを処分します。

 鏡餅の名称は、鎌倉~室町時代から使われ始めましたが、平安時代には餅鏡と呼ばれていました。鏡は霊力を備えたものとして考えられており、餅を神の宿る鏡に見たてて形作ったのが鏡餅です。
 正月に飾る鏡餅は、訪れた歳神様が宿るとされ、その形は一説には人の魂がこもる心臓を模しているとも言われ、人間関係の付き合いが円満であることの祈りが込められています。
 満月を別名「望月」と呼ぶ事から、鏡餅を拝むと望みを叶えられると信じられてきたのです。

 昭和の時代に木屋町三条を上がったところに「望月」というお饅頭屋さんがありました。父はそこの「望月」が大好きでお土産にも良く購入していて、子供の頃から食していたのを思い出します。もう廃業されてお店はありません。
 この満月型の餅は、天皇の「三種の神器」の一つである銅鏡の形に似ているから、鏡餅と言われるようになったとも言い伝えられています。

以上

 

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