私の京都への恋文
7-Dec-18
「川端康成の愛した京都」京都愛物語オープニング講座
北山中川地区北山杉資料館での京すずめ学校京都愛物語オープニング講座
前プログの続きになります。「京都への恋文」の審査委員長を誰になっていただけるのか暫く思案しておりました。最終的に川端康成記念会理事長の川端香男里先生に審査委員長にご就任頂き、実施にこぎつけたことを思い出します。
2008年に川端康成記念会の理事長川端香男里先生にお出ましを賜り、京ずずめ学校・京都愛物語のオープニング講座で「川端康成の愛した京都」を北山杉資料館で開催しました。ちょうど、川端康成先生ご生誕100年を記念して(1899年6月14日ご生誕)北山中川地区で記念植樹もさせていただきました。
講座で、「康成はノーベル賞受賞のスピーチ「美しい日本の私」で良寛の辞世の句を引用し、「人は死んでも何も残せないが、自然はあるがままに残る」と語りました。この美しい日本を遺し守り、後世にいかにして引き継ぐ古都ができるのか」、これが川端康成の課題だったと考えるところです」と康成先生の深い想いをご教示頂きました。
また、『古都』の連載時の折の記者会見で「私は書きたい代(しろ)がようやくなくなってきた。それで、いつも京都へ行く」。(中略)「日本の戦後文学の作品として『古都』は当時の政治を巡ることなく、ただ。京都の風景と人間を描くのである」。
【京楽四季】序文には「都のすがたーとどめおかまし」に 「山の見えないまちなんて、私には京都ではないと歎かれた」とあります。
朝日新聞連載中の文化勲章受章の記者会見で「京都を何故舞台にしたのか」
「古い都の中でも次第になくなってゆくもの、それを書いておきたいのです。京都はよく来ますが、名所旧蹟を外からなでていくだけ。内部の生活は何も知らなかったようなものです」と申されています。
スウェーデンアカデミーのノーベル賞受賞の評価 (2017年1月公開)では『古都』(英語訳Kyoto)が日本人の生活様式を見事に表現し、倫理観や美的意識、人々を鮮やかに描き西洋的な影響を受けていない。(50年間非公開で2017年1月に初めて公開された)ことで評価されたことがわかっています。
(朝日新聞PR版、昭和37年(1962年)1月13日付け「古都」愛賞にこたえて
新村出先生の長文の「古都」愛賞の激励の文に対して、連載中の最中、次のように一文を寄せました。
「『古都』ですが、私は体力不足のせいもあって、新聞小説は苦手、こんどもなるべく短い、可愛い恋物語を、すらすらと書こうと思いました。はじめに、モミジに寄生する二株のスミレの花をだしましたのも、じつは若い恋人の象徴のつもりでありました。(中略)
自分が良いかしらとおもうところは、北山の雨のなかで、杉の村の娘が中京の娘をかばうところぐらいでありましょうか。(中略)
ともかく、『古都』は私の京都小説の序の口とみていただければ幸いであります。(中略)私は寒がりでして、京の冬はつらいのです。叡山や鞍馬あたりが、深雪をかぶり、北山しぐれのふるころが…….。ふだん人ごみの嵐山なども、見物のいない真冬はやはりいいところだと思いました。(後略)
「古都など」 『毎日新聞』(1960年1月1日)では、東海道線を京都に近づくにつれて、山川風物にやはらかい古里を感じる」とも語られて、『古都』の次の京都を描かれた作品をもっともっと多くのファンは拝読したかったでしょう。
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2018年12月7日
京すずめ文化観光研究所