鯖街道 お米の国・日本Ⅲ 京寿司と江戸前寿司
土居好江
鯖寿司 |
箱寿司 |
巻寿司 |
出町橋の鯖街道口の石碑 |
寿司のルーツは東南アジアの山岳地域の調理法であった動物性タンパクの魚等を米と一緒に漬け込んで乳酸発酵させて、腐敗を押さえた保存食でした。この保存法が縄文時代に日本に伝わり「なれ寿司」となり、主に魚を塩とご飯で乳酸発酵させたもので、滋賀県のふな寿司が有名です。
その後、完全に発酵が進む前に食する「生なれ」が誕生し、江戸時代の元禄の頃には、ほとんど発酵しない「早寿司」が誕生し、文政の頃に「にぎり寿司」が誕生しました。これが江戸前寿司です。
西日本では塩の生産が盛んで、平城京跡の木簡からも塩漬けした鯖が「旧鯖(ふるさば)」として出土しています。
江戸時代から明治にかけて、京都で寿司と言えば「鯖寿司」、大阪では「箱寿司」が本来の寿司でした。戦後の冷凍技術の発達などにより、全国的に江戸前のにぎり寿司が広く普及して、江戸前以外の寿司は田舎寿司や家庭寿司と、位置付けられていたのです。
京寿司・いづ重さんhttps://gion-izuju.com/の当主・北村典生氏は「京寿司の基礎を成すものは箱・巻・鯖」と申されています。特に江戸時代・18世紀後半に若狭で大量の鯖が水揚げされるようになり、それを浜で一塩にして、一昼夜、牛馬に頼らずに人が背負って運びますと、ちょうど、一塩した鯖が約24時間後に旨味が増して美味しくなります。40~60キロの荷を朽木で交代する場合もあったそうですが、夜通し歩いて京に到着していました。
京に到着すると、ちょうど塩がまわって食べごろの鯖を使って作った寿司が鯖の棒寿司です。鯖街道が開かれ、ますます鯖寿司は食されて、京都ではハレの日に食するようになります。昔、祭の日には、母がいつも鯖寿司を沢山つくり、ご近所へおすそ分けしていました。鯖は脂が乗る秋の鯖が一番美味しいと言われています。
海から遠い京都市内で鯖や鱧を工夫して食した文化が、発展して、鯖寿司や鱧寿司が定着していきました。京都の料理人の精進の賜物と思います。
他府県では出汁にだして捨てる鱧を、京都では鱧切りという鱧の骨を食べやすくすて鱧料理のジャンルを拡げました。鱧の骨切りは「一寸(約3cm)に25本」と言われます。皮一枚を残して身と骨だけを切る職人技であり、江戸時代から伝わり、京都の料理人は、この鱧切り包丁を大切にされています。
料理人の腕が試される切り方ができて、はじめて一人前といわれるように特別の工夫があり、しかも傷みやすい魚を如何に工夫して保存しやすくするかを究めてきました。
一般的な江戸前寿司は東京湾で獲れた魚をネタにしていたのを指していました。京寿司は酢でしめたり、蒸したりして、生の魚をそのまま使うことはありませんでした。
「江戸前寿司」というのは、江戸の前、東京湾(江戸湾)で獲れた魚をネタにしたお寿司のことをもともと指していました。江戸時代初期の食事は一汁一菜の質素なもので、自宅で食事をしていましたが、明暦の大火事(1657年)で、江戸市中の三分の二も焼き尽くした為、全国から大工、左官、鷹職人を集めました。
地方から上京した単身赴任者用に、総菜屋の職人が増えていきます。火除け地の空き地が単身赴任者のたまり場になり、屋台が出る盛り場になっていったのです。
元禄の頃、木炭が普及して、その場で調理できる焼き魚屋、蕎麦、おでんが販売されるようになり、やがて、屋台で商売する人たちが増え、浅草の浅草寺境内の茶屋で、奈良茶飯が販売されたのが、食べもの屋としてのルーツと言われています。
その後、1664年(寛文3年)に蕎麦屋ができ、享保年間に寿司、天ぷら、ウナギがファーストフードとして普及しました。これが担ぎ屋台の代表となります。
屋台の形式は、食材、野菜、魚、南蛮菓子、麹、油、かつお、金魚、苗木を売る振り売り(棒手振り)があり、幕府は49種類を許可していました。担ぎ屋台は担いで移動した蕎麦屋に代表されます。また、寺院の境内や門前で床店(とこみせ)とよばれる屋台です。屋台見世は据え置きで仮設の店舗では寿司があり、担いで移動しない店舗です。
にぎり鮨は「文化文政年間(1804~1830年)に酢飯に魚などの具をのせて販売し、酢飯はおにぎりに近い大きさで一貫4文か8文で販売されていました。(1文は約32.5円)江戸前料理の基本は濃い口醤油で京都の薄口醤油とは異なります。蕎麦の汁も天ぷらの天つゆも濃い口醤油が基本です。
時代と共に江戸前寿司は進化していき、江戸前寿司と京寿司はそれぞれの地域の特徴を活かした寿司へと進化していきました。
以上