人類と薬の歴史と健康(Ⅲ)

江戸時代には天皇や大名の医者として働いたご典医さんがおられました。現在でも京都にはご典医さんの末裔の方が、漢方の薬を販売しています。私は胃薬だけは漢方薬を服用した時がありました。

以前、私の師匠である鍵山秀三郎先生が中国にトレイ掃除の指導に行かれご帰国された時に下痢が1ヶ月止まらないというお手紙を頂きました。早速、ここの漢方薬をお送りしましたところ、良くなったというご連絡を頂きました。他の方にも胃が悪いとお聞きすると、江戸時代と同じ漢方樂をお送りしています。

古くから仏教では、仏の教えを広めると同時に、医学や技術を通じて人々の役に立つことを奨励しました。その影響で、くすりや医学に詳しい僧医たちも、日本を訪れています。

鑑真は、唐から日本への渡航に5度も失敗し、途中で失明しながらも、753年に苦労の末、来日しています。鑑真は、くすりに詳しい医僧でもあり、目は不自由でしたが、あらゆるくすりを鼻でかぎ分けて鑑別することができ、聖武天皇の夫人光明皇后の病気を治しています。

この光明皇后も非田院や施薬院等を設置して、貧しい人の収容や病人の施薬、治療に当たり全国の薬草を集めたと伝えられています。この日田院は奈良時代から室町時代頃まで続いたと言われています。

奈良・平安時代には鉱物薬、動物薬が比較的多く用いられたといわれおり、正倉院に現存する薬物などから、海外から中国経由で輸入された麝香(ジャコウ)、熊胆(ユウタン)、鹿茸(ロクジュウ)、牛黄(ゴオウ)、海狗腎(カイクジン)などが薬草として使用されました。これらは現代でも薬として珍重され、奇応丸、六神丸などに配合されています。

大和(奈良県)での日本初の薬草採取の記録『日本書記』
出典:内藤記念くすり博物館蔵

この絵(壁画)は、611年5月頃、推古(すいこ)天皇(初夏の日射しを日除けでしのいでいる左側の人物)が、各々に冠位を表す色の衣装をまとった百官(ひゃっかん=役人)たちを率いて、大和・莵田野(うだの、現在の奈良・宇陀市)の丘陵一帯で、薬狩り(薬草採取)に励んでいる様子を描いたものです。これは、『日本書紀』にも記されており、日本最初の薬草採取の記録といわれています。

日本の医学は大宝律令(701年)に典薬寮をおいて正式に中国医学を取り入れ特に江戸時代初期に中国から『本草綱目(ほんぞうこうもく)』が入ってからは、それを典拠とした本草学が発達しました。

京都にも徳川幕府が営んだ「鷹峯薬園」(北区鷹峯)がありました。将軍や天皇に献上する薬草を栽培したところです。現在は住宅地になって薬園跡の井戸も撤去されましたが、私は何回もこの井戸跡を見学していましたが、今は見ることはできません。京都には、こういう貴重な場所がいつの間にか消えていっています。

今まで数千年も続いてきた薬での治療は、今後は周波数療法になるといわれています。どのようなものなのか、詳細はよくわかりませんが、心臓や肝臓、胃などの臓器はそれぞれの周波数があり、その周波数が乱れて病気になるらしいのです。その周波数に戻して正常にしていくというのが、これからの治療であるとお聞きしました。

以上

 

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