お米の国・日本Ⅱ 梅干しのおにぎり

土居好江

日本最古のおにぎり石川県埋蔵文化財センター蔵

江戸名所図会(幕末)江戸時代の農作業中のおにぎり

   最近、京都のまちを歩いていると「おにぎり屋」が、以前よりかなり増えていることに気付きます。コンビニのおにぎりもいろんな種類が販売されています。コンビニによってはおにぎり、おむすびと名称が異なります。地域によって名称が異なるようです。パリの街角でもおにぎりやお弁当屋さんを見かけました。お米の消費量は減少しているのに、おにぎり屋さんもお弁当屋さんも増えています。

   日本最古のおにぎりといわれている 石川県杉谷チャノバタケ遺跡で出土された炭化米塊。弥生時代、おにぎりは日常食ではなく神へのお供え物であったと考えられています。

   現在の日本では、大半の方が一日三食ですが、室町時代頃までは二食が普通でした。『おあん物語』には戦国時代は一日二食だったことが記され、一日三食になったのは江戸時代後半の菜種油の灯りで、活動時間が増えた為です。元禄の頃から一日三食になったようです。この頃には木炭が普及し、江戸では魚を焼いたり、蕎麦屋やおでんが屋台で販売されるようになりました。

   鎌倉時代から室町時代にかけて日本人の食生活にいくつかの変化が起こりました。その一つが、江戸時代の元禄の頃から一日三食の習慣が定着してきたことです。古代の日本では、夜明け前に起きて仕事をし、気温が上がる10時くらいに家に戻って、そこで朝食と昼食をかねた食事をするのが普通でした。奈良時代の役人の勤務時間は早朝から昼ごろまでだったそうです。宴会は午後2時に始まって日没までだったようです。

   鎌倉時代後期になっても、後醍醐天皇は朝食を正午ごろ、夕食を夕方4時ごろ召し上がっていたようです。夜中に起きているのは物の怪か、夜行性の動物だけでした。夜に大きい音をだしてはいけないというのは、この物の怪がくるということだったのです。

   日本はとくに夏が蒸し暑いので、涼しいうちに仕事を片付けるのは合理的で、灯りが取れることから、就寝が遅い現代人よりも、日の出、日没を基準に生活していた古代から中世の暮らしのほうが、体本来のリズムには合っていたのかもしれません。京都でも夏の暑い日には鴨川での夕涼みが庶民の楽しみでもありました。

   鎌倉武士も一日二食でしたが、実戦の時、おにぎりを持参して食べていました。鎌倉時代初期の1221年(承久3年)に発生した承久の乱の際には、鎌倉幕府が武士に梅干し入りのおにぎりを配ったといわれています。武士の出陣の折には、必ず梅干しを食したようです。

   ある料亭で宮本武蔵が携帯していたにんにく味噌を復元して頂き、食したことがありました。武士は健康管理に注意を払い食事をしていたことを実感しました。

   梅は飛鳥時代に大陸から伝わりました。最初は梅の花が日本に入り、梅の塩漬けが「梅干し」として平安時代の『医心方』に記載されています。梅干しを作るときにシソを入れるのは風味を加えるためだけでなく、シソが毒消しの薬草だからです。当時の野菜は薬効重視で選ばれていました。

   村上天皇(在位946〜967年)が疫病にかかったとき、梅干しと昆布を入れたお茶を飲んで快復され、これが元旦に頂く「大福茶」のルーツです。この年が申年であったことから、申年の梅干しは特別なものとして珍重されています。京都では元旦にお屠蘇の前に、この大福茶を頂きます。今では金粉入りの高価なものが主流です。

   当時の米は餅米の玄米だったと推察され、おにぎりは竹の皮や木の葉に包んで持ち歩きました。元禄の頃、浅草海苔の板のりが普及しおのぎりに海苔をまくことが普及しました。

   うるち米を使う現代風のおにぎりが登場するのは鎌倉時代末期からで、梅干しのおにぎりが、承久の乱から武士が食していたとは、驚きの歴史です。

以上

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