お守りのルーツ・茅の輪八坂神社の蘇民将来の子孫也
土居好江
平安時代に八坂神社は祇園社、祇園感神院と呼ばれ、974年(天延2年)以後は天台別院とされ、比叡山延暦寺の末寺とされていました。平安時代から神仏習合の色彩が強い寺院で、明治4年(1872年)に神仏分離で八坂神社と改名されました。
蘇民将来の伝説とは?
日本初のお守りと言われる蘇民将来とは『備後国風土記』に登場します。物語は次のように展開していきます。
昔むかし、武塔伸が旅をしていました。大金持ちの巨旦将来(弟)と貧しい蘇民所来(兄)に宿をお願いしたら大金持ちの巨旦は貸さずに、貧しい蘇民は快く貸して栗飯でもてなしました。それから数年後に子どもを連れて、お礼に蘇民を訪ねました。蘇民と家族は茅の輪をつけて疫病から免れたのですが、他の人びとは死に絶えたそうです。現在も茅の輪を6月末日、夏越の祓でくぐり、
疫病退散を祈ります。
昭和の時代まで、祇園祭の日に「蘇民将来の子孫也」と記した護符を付けた粽を山鉾から投げたりして沿道の見物人に配っていました。昭和51年に投げた粽が観客の目にあたり、一旦は自粛され、57年に投げた粽を取ろうとした方が骨折するという事態を重く見て、残念ながら昭和58年、危険であるということで、この粽投げは全面禁止となりました。粽は事前に購入するようになったのです。
「鉾に集まった穢れや災いを粽に込めて投げることで、福に転化し厄除けのお守りとなる」と言われて大人気でした。私も子供の頃、京町家の2階に座って投げられた粽を頂いた思い出があります。
ちなみにこの粽は囃子方が自前で購入して最高のパフォーマンスを行ったのです。いわば、山鉾の囃子方と観衆との祭のコミニュケーションであり、お神輿が「ホイットー、ホイット」という掛け声に合わせて、観衆が拍手するようなコミニュケーションでもありました。
以上