御清火と御朝物
土居好江
2014年10月29日撮影 百味会 祇園歌舞練場
10年前のこと、今も鮮明に覚えています。応仁の乱前から明治維新まで、天皇に毎日、献上された御朝物の実物を拝見しました。応仁の乱の前後では、天皇もお召し上がりになる御朝物を心待ちにされていたとか。
この献上品をつくる川端道喜のおくどさんの火が御清火として、京都の火の源となっていた時期がありました。「川端道喜 由来記」には、次のように記載されています。
「さて、室町時代末よリ天皇の召し上がリものを作る道喜の家のかまどの火は、特別な意味と品格を持つ「御清火」と呼び慣わされ、宮中儀式をはじめ諸方神社の神事がある場合、必ずそれまで使われていた火をすべて灰までも土に埋めて、新たに道喜のかまどの火を用いる慣わしになっておりました。その、最後を飾る大事な務めは、嘉永五年九月ニ十ニ日 ( 1852)前夜よリ準備怠リなく待機しておリました、家業を継いで三年目の十ニ代道喜正興が、辰の刻に出産兆しの報を受け、産湯を沸かすための火種を急ぎ、指示された中山邸へお届けしたことでございます。孝明天皇の第ニ皇子で、御幼称は祐宮、のちの明治 天皇御誕生でございます」。
川端道喜では清められた火も宮中へ納めていました。「御所では正月二日に、御酒、鏡餅、蛤の三種を供えましたが。これを道喜の家が準備を行いました。また御所の火は、浄められた火が必要とされたが、毎年の新しい火は川端道喜の竈の火が使われた」と。
幕末 明治天皇ご誕生の折の産湯の火種も、川端道喜のおくどさんの火で中山邸の井戸水を沸かされています。
川端道喜が宮廷に納めていた品に中には、灰がありました。『家の鏡』には川端道喜は先祖代々、火を清めているので、宮中では御神事、神社御参向などのことなどがある場合には、川端道喜の火を用いる決まりとなっていました」。
「御用永代要聞記」には灰の注文も記載されています。仁孝天皇(1800年3月16日〈寛政12年2月21日〉)1846年2月21の崩御の折には計53俵の灰を納めておられています。川端道喜では火の清さを守り通すために、おくどさんで薪や柴以外のもの、例えば紙屑なども燃やさないことで、火の清さを守っていたそうです。この習慣は明治維新まで続きました。
以上