平安京が初めて向き合った千年前の感染症
平安京建都から十数年経った大同3年(808)のお正月は、京の道は人々の屍で埋まっていたようです。強い感染症を患い京中の捨てられた死骸を、埋葬するため朝廷は使いを送ったとされています。
この年の2年前に諸国を襲った大洪水が京の都にも影響し、疫病が流行ったようです。更に10年後の弘仁9年(818)には大飢饉が起こり、飢餓と疫病が平安京を襲います。この時も餓死者が京の町中に溢れたようです。人口は半分になりました。
平安京建都の当初、この都の設計図は、消費都市として生活物資の多くを地方からの貢ぎ物に負うところが多く、地方の状況に影響されました。京都独特の手工業生産物を除いては米穀等の食料も大部分が貢ぎ物で賄われていたので、天候による影響を受けざるを得ませんでした。
こんなエピソードが文献にあります。『本朝世紀』や『』日本紀略』には「死亡者は多く路頭に満ち、往還の過客は鼻をつまんで、鳥犬は食するに飽き、骸骨は巷に塞ぐ」とあります。
京の小路や辻々で疫病の鎮まることを祈り、疫病除けに効くという三条油小路の小井の泥水が疫病除けに効くという噂が広まると、桶を持って先を争って泥水を飲んだという記録があります。
平安時代は疫病は鬼形の疫神がもたらすと信じられていたので、鬼気祭を朝廷は行い、その退散を祈ったと言います。21世紀の私どもも、早く収束して欲しいと願うばかりです。
人間の心理は千年前も今も変わらないものだす。最近のマスクの買い占めとトイレットペーパーの品薄も同じような防御反応です。
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