川端康成先生のお誕生月・6月 <2>

土居好江


比叡山を借景にした薔薇園2024年6月5日撮影 

植物園の中にある半木神社(なからぎじんじゃ)
撮影同日

フタバアオイ

桂の木

  6月にお伺いした時は、京都府立植物園副園長の肉戸(にくと)裕行氏に、ご案内頂き、植物園の魅力を感じることができました。有難うございました。また、北大路通に面している料理屋・照月の大女将・清水真理子氏から、GHQが居住していた終戦直後の様子をお聞きししました。

『古都』に登場する京都府立植物園は戦後1946年、すぐにGHQ(連合国軍総司令部)は植物園を進駐軍の幹部用家族住宅地に指定しました。そのため、植物園の東部と南部を残すことを条件に何回も交渉が行われ工事が始まりました。

1946年(昭和21年)秋から建設工事が始まり、25000本あった木々は6000本まで削減され、園内の樹木19000本が伐採されたのです。ブルドーザーによってロックガーデンや薬草園だった処は、広い道路に変わってしまいました。幸い楠並木道はそのまま残り、今日に至っています。

植物園の全面返還となったのは、1957年(昭和32年)12月12日ですが、実際に京都府に還ったのは1年後の1958年12月26日であり、それからの再園は困難が続きました。戦中戦後、約20年間の長きにわ足り植物園としての機能が失われていたものを回復させる努力は並大抵のことではなかったようです。

返還された植物園の再建計画を進めていく中、1959年春に臨時無料公開を行い、戦中戦後の20年近い間、植物園の機能が失われた園内を見届けるべく多くの京都府民が訪れました。丹後産のチューリップが咲き競うのなか4月15日からの12日間で15万5千人の入園者が押しかけたそうです。特に公開最終日の日曜日には7万人(近年のデーターでは1日2万人が最高)が訪れ植物園を楽しみました。

『古都』にも<「植物園に入ると、正面の噴水のまわりに、チュウリーップが咲いていた。「京都ばなれした景色どすな。さすがにアメリカさんが家を建ててはったはずや」としげは言った。>とあります。このチューリップ畑の前でお見合いをしている方々もあったとあり、新しもの好きの京都人が愛らしいチューリップを愛でた様子が分かります。

植物園の中には神社があります。ちょうど、上賀茂神社と下鴨神社の中間地点にあたる場所が植物園内にあり上賀茂神社の境外末社にあたります。上賀茂神社と下鴨神社と言えば、葵祭が頭に浮かびますが、祭と花や木も大いに関係があります。フタバアオイが開花する時期が葵祭の時期にあたるのです。地を這うようなフタバアオイと天に届くように伸びる桂の木を葵祭の行列の時には全員が身に着けます。天と地が合うように、フタバアオイと桂の木両方を身に着けるのです。

この半木神社は、もともとは流木(ながれぎ)神社と呼んでいたそうですが、現在は半木神社と呼ばれています。もともと創建年代は不詳ですが、洪水の折に流木が流れ着いたので、その木で神社を創建したそうです。

今、最も人気のある楠並木は伐採を免れたお陰で、樹齢百年を超える並木となっています。また、貴重な植物は大阪や名古屋の植物園等、分散して預けられ、植物園が日本に返還された時点で京都に戻されたそうです。

川端康成先生も何回もこの植物園に足を運ばれ、四季折々の花や木々を楽しまれたのでしょうね。

この植物園周辺の住民の方々は、進駐軍が接収していた当時、「中に入ると銃で殺される」と教えられていたそうですが、中に入っても、抱っこして外へ連れ出してくれたそうです。また、GHQの方が料亭に食事に来られた時は、肉や砂糖をお土産に持参して、和やかに交流していたそうです。

人種が異なり、文化や言語が異なっても人間同士としての交流があったことを知り、戦後の動乱期にも、穏やかな心を持ってお互いが接しておられたことをお伺いすることが出来ました。(つづく)

以上

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