井上章一第四回京都への恋文審査委員長のお話と土居理事長のご挨拶

【井上章一審査委員長のお話】
入賞なさいました皆さん方、おめでとうございます。この会を支えてくださった皆さん方にもありがとうございます。感謝いたします。

主催の土居さんに頼まれました。ピアノを披露してくれ、と。私は決してピアニストではありません。ピアノの練習を始めたのは41歳になってからです。今は67歳です。おじいさんです。中年になって取り組み、老年にいたってたどりつた音を、おとどけします。聞いていただくのもおこがましい。そう思っております。それでも、お付き合いください。

私は嵯峨というところで育ちました。今は宇治市に暮らしています。京都の周辺です。京都の周辺ですが、京都の文化は及んでいます。ピアノの練習をしていて困ることがあります。近所の人にお上手ですね!と言われた時、困るんです。

たいていの日本人はほめられた時、謙虚に答えはるでしょう。いや決してそんな、大して上手ではないですよ。そう答えはると思います。でもこの町ではそれが許されません。

ピアノが上手ですねというのは、十中八九やかましいという意味です。そう受け止めた方が無難なんです。 これは京都流のほめ殺しや、と。
 私は、実を言うと宅配のお兄ちゃんに、上手ですねと言われた時は真に受けます。ほんまに上手やと思てくれている。そう受け止めるようにしています。でも近所の方に言われた時は、喧しくて申し訳ありませんとこたえますね。

京都近辺で暮らしている人には、それが常識なんですね。例えば劇場なんかで鳴き声が止まらない子供がいれば、元気なお坊ちゃんやね、羨ましいわ、という。やかましいという意味です。時間がルーズな人に対して、いい時計持ったはんな。これも日本語の表現辞典には、載っていません。でも、いい時計持ってますなというのは、ちゃんと時間を守りなさいという意味です。

私がこのことを噛みしめたのは、ブラジルのリオデジャネイロにいた時です。3カ月ほどを過ごしたことがあります。リオデジャネイロ州立大学に招かれたんです。日本文化の授業をする為でした。

私を招いてくださった方が州立大学の文学部長に、私を紹介してくれたんです。その時に、井上という人は、私のことですが、大変立派な人だと説明しはるんです。本もよく書いている。それらはよく読まれている。国民的に知られている。紹介者の話が、そんなふうになりだした時、おい、まってくれと思いましたよ。でも、文学部長がその話を聞いて、私に尋ねはるんです。

あなたはそんなに有名人なのか、と。私は迷わず言いました。とんでもない、と。文学部長は、いちおう納得しました。あなたは謙虚な人なんですね、と。これで、その場は終わったんです。

ところが、その部屋を去る時に、私を文学部長へ紹介してくれた先生が怒り出さはったんです。なぜあの時、きちんと自分は有名だと答えてくれなかったのか。大体日本人はああゆう時、謙虚に振舞いすぎる。謙虚に振舞ったらいいと思っているかもしれないけれども、ブラジルでは、しばしばあんなやり方は卑怯だと、受け取られる。私はたずねかえしましたよ。じゃブラジルの人はどう言わはるんですか。その返答を、申しあげましょう。もし、ブラジル人が井上さんの立場やったらこう言うでしょうと、告げられました。

ええ、私は日本でよく知られてます。作家として私は、谷崎、川端、三島と並び称されています、と。私は聞いてあぜんとしました。そんなだいそれた話は脳裏をよぎりもしませんからね。それに、私を招いてくれた先生のおっしゃる卑怯だというニュアンスが、よく分かりませんでした。でも、後で気がついたんです。

皆さん経験しておられると思います。中学生や高校生の時に、中間試験や期末試験を受けます。クラスメイト同士で準備できているかどうかの会話が始まったりしますよね。その時に、そこそこ準備が出来ていると思っても、絶対、そうは言いませんよね。いや、あかんわ。絶望的や。これがふつうです。

謙虚を装ったあの言い回しの中に、一番、仲の良い友達をも油断させよう。少しでも平均点を下げられまいか。みんなをさしおいて少しでも自分がのし上がろう。そんなさもしい根性が全くないと言えるでしょうか。能ある鷹が爪をかくす。このことを、世界はずるいと考えるかもしれない、と思いました。

ついでに言います。京都の国際化を考える時の話をします。京都精華大学で学長をしておられたウスビ・サコさんは、マリ共和国から来られています。そのサコさんが言うたはりました。彼は賑やかなことが好きなんです。家でよくホームパーティをしはる。色んな人が来て賑やかな集いになる。そして、近所のおばさんがしばしば言わはったそうです。いつも楽しそうですね。

サコさんは楽しいですよ。奥さんもどうぞと応じてたらしい。何回か楽しそうだなと、そのおばさんから言われた後だそうです。ついに警察が来たんです。近所からやかましいと苦情が来ている、そう、告げられたそうです。サコさんには楽しそうですねという言い方がやかましいという意味になることが分からなかったんですね。それはもう京都の抱える宿命なんですが、国際化の時代を迎える時に、この言語習慣はどうなんだろう。楽しそうですねが、やかましという意味になる。これははつらいんじゃないか。あの反語的な言い回しは、考えなおしたほうが、いいんじゃないか。サコさんの話を聞いて、私はそう思ったんです。

同じ話をベルギー人のフレデリック・クレインスという人にしました。グレインスの反応は全く違います。西洋人はみんな自我や主体性がはっきりしているわけじゃない。自分も引っ込みじあん。井上さんと一緒なんです。たとえば、谷崎、川端、三島と並び称されたりするのは、たえられません。

京都で機嫌よく暮らしている外国人には、そういう自己主張をしない人が結構いる。だから 京都は 世界中のそういう奥ゆかしい人のよりどころとなったらいいんじゃないか。まあ両極ですね。どちらかの途を、この町が国際化をむかえる時に選択する。私はどちらかというと世界中の引っ込み事案な人が、心を休められるようになったらいいなと考えるほうですね。

41歳から始めたピアノです。付き合ってやってください。決して上手な音楽だとは思わないでください。ええっと、そうですね、まあ子供の発表会を聞きに来るお母さんの気持ち位でつきあってみてください。

「星に願いを」という曲からお届けいたします。口幅ったい言い方ですが、アドリブの17小節目当たりから流れ星が流れるように設計したつもりです。気が付かれたら、ちゃんと願い事をしてやってください。わからない方はほっておいてください。

 

【土居理事長の開会のご挨拶】 
ようこそ、おこしくださいました。私、京すずめの理事長の土居好江でございます。

コロナ禍で随分心配をしましたが、遠いところ、ご参加賜り、心より感謝申し上げます。

洛中の創建千年を超える因幡堂平等寺様を会場に、無事に開催でき、心から感謝申し上げます

京すずめは創立から、まだ22年目でございますが、現地現場で奧深い京都の文化と心を学んで参りました。何のために22年間、京すずめの活動を続けてきたの、「京の土地や文化、歴史に元気をもらい、生きるエネルギーを作り出す 場所は私にとっては、こんなまちは世界どこにもありません。このエキスを継承していきたいと言うのが私の願いでございます。

京都と対話し、京都の空気感を魅力的にするための仕組みづくりが「京都への恋文」公募でございます。思いついたのはJICAで文化の異なる政府の行政官を研修で担当し、また、世界の各国から来られた方々を京都でご案内した時、あまりにも異なる反応をされる事を身をもって体験したことからでした。

 京都への恋文大賞の清谷様は2才の双子と小学2年のママで子育ての大変な中、駆け付けてくださいました。鶴田様は岡山からお嬢様とご一緒にお越し頂きました。ほのぼの賞の盛武様は高校生、愛媛からのご参加でございます。また、恋文公募で連続3回も、ご入賞の鈴木様は神奈川から駆け付けてくださいました。有難うございます。

京都への恋文は2008年の京すずめ学校のカリキュラム「京都愛物語」の川端康成の愛した京都の講座からスタートしました。『古都』に感動して、『古都』を徹底的に分析しました。ここから映画「古都」も誕生しました。これほど、京都の魅力と文化、歳時記が美しく描かれていることに驚きと喜びで一杯でございました。

康成先生と、東山魁夷画伯殿とのやり取りを通し、「人は死んでも何も残せないが、自然はあるがままに遺る。この美しい日本の自然を遺し、守り、後世に、いかにして引き継ぐ古都・京都ができるのか、これが川端康成の課題だった」と川端香男里線先生から教えて頂きました。

「山の見えない町は京都ではない。山が見えない。山が見えない」と嘆かれた康成先生の想いは京都人が365日山を見て安心して暮らしている気持ちを代弁して下さっています。

自然と一体化して進化してきた町・京都が今後もこの文化伝統を守っていきたいと、恋文を通して、世界へ、日本全国へ、皆様の京都への想いを発信し、広げて参りたいと思います。本日は楽しいお時間を皆様とご一緒に過ごさせて頂ければ幸いでございます。有難うございます。

以上

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