第三回京都への恋文審査委員長

井上章一  国際日本文化研究センター所長

京すずめ文化観光研究所顧問

 

 

 

今、京都は、いや日本中、そして世界中がコロナという感染症におびえています。ウィズ・コロナとよびかけられていますが、ウイルスとのつきあいかたはわかりません。京都への観光もひえこみました。「京都への恋文」が、心おきなくたのしめる状況では、正直に言ってないでしょう。

京都新聞賞にえらばれた宮野さんは着物の街として、京都をえがいてくれました。「市長も着物」で仕事をする街であることを、とりあげておられます。ですが、その市長も感染の拡大以後は、和服をひかえだしました。 スーツにネクタイというビジネス・スタイルで市政へむきあっています。京都じしんに京都らしくあろうとするゆとりが、なくなりだしたのかもしれません。

ですが、そんな御時世だからこそ、みなさんの、応募者各位の作品が目にしみました。ああ、ほんのすこし前までは、これが京都の姿だったなぁ。こういうことが語られる街だったなぁと、かみしめています。

私じしんは「京都ぎらい」を標榜してまいりました。ですが、感染拡大後の京都をあげつらう気になれません。以前は京都らしさが健在だったからこそ、にくまれ愚痴もたたいてきたのだと思います、逆に今は「京都への恋文」が、わだかまりなくあじわえます。審査にあたったのはコロナ以前でした。その当時はいだけなかった感想もこめて、この講評をつづります。ご容赦ください。

京都府知事賞の長谷川さんは、「どんどん」の話を書いてくださいました。そう、あのころは往来で焚き火に、人の輪ができたんですよね。わたしにも、記憶はあります。「どんどん」という響きも、耳のどこかにのこっています。でも、今は京都のみならず、どこでも焚き火ができなくなりました。

〽焚き火だ、焚き火、落ち葉焚き……の唄も、まぁ御蔵入りでしょう。大気中のダイオキシン濃度を高める、とか言ってね。

今、読むと、ウイズ・コロナの対応をせまられる状況と、イメージがかさなります。だからこそ、よけいに愛惜の想いが高まりました。長谷川さんも、いくつかの像をおりこんでおられます。「どんどん」から、人がだんだんはなれていく。焚き火のできた時代がすぎさった。御じしんも、京都から遠ざかっている……。いい文章をまとめて下さったと思います。

「京都に何がある」の。「京都には、京都がある。京都市長賞の鎌田さんはそんなおばあさんの言葉を紹介してくれました。おっしゃるとおりです。そういう言いかたでしかあらわせない何かが、たしかにあるのですね。のみならず、自らを投影できるところが、たくさんあることもしまされました。すばらしい「恋文」だと思います。

鈴木さんは審査委員長賞ですが、批判的な指摘もよせてくださいました。「恋文」では、相手ににおもねらない的をいた言葉も、胸を打つものです。ただ、現在では京都タワーより京都駅舎のほうが目ざわりになっているかなとも思いました。

京都新聞賞の宮野さんには味のある絵をとどけていただき、ありがたく思っています。着物の街を語るいっぽうで、絵柄にはこっぽりの履き物をとりあげられました。ほどよく、意表をつかれましたね。

京すずめ文化観光理事長賞をとられたのは谷口さんです。京都のなつかしいならわしやくらしぶりに、光をあてられました。焚き火の一本にしばられた知事賞のかたとくらべれば、印象は弱くなったかもしれませ。私は愛宕さんの護符に想い入れもあるのですが……