大河ドラマ「麒麟がくる」本能寺の変の謎

亀山城跡の穴太衆積みの石垣

光秀はずば抜けた野心家で、イケメン、そして、ずば抜けた記憶力の持ち主で、美濃から越前(福井県)に行き、その後、近江(滋賀県)の田中城で医薬の処方を教えた後、長岡京市ゆかりの細川幽斎の家来になります。
細川幽斎は織田信長から長岡と呼ばれていた現在の長岡京市、向日市一帯を領地としてもらっていました。光秀はここでは、まわりの人たちもうまくいかず、信長に仕えることを夢みていました。
光秀は織田家の「信長出頭人前」と言われる信長の側近に奉公したいとアピールして家臣になり、信長が京都に来るたびに、光秀の屋敷に宿泊していたことから、自信がつき、暗殺計画をたてたのではないかと考えられますが、謎めいています。
光秀の子孫、明智憲三郎氏は『本能寺の変 431年目の真実』を執筆して、本能寺の変は信長が家康暗殺を光秀に命じたと主張しています。明智家では信長の中国侵攻を恐れた光秀が家康と結託して、信長を暗殺したと言い伝えられています。歴史の真実はいつも謎めいていますが、真実は一つです。
明智憲三郎氏は三菱電機に勤務しながら文献を調べ、スペインの『日本王国記』を発見して、当時の信長最期の言葉「是非に及ばず」が自ら仕掛けた家康の闇討ち計画により、信長自身が闇討ちされたということが記されていたというのです。
本能寺の変は、秀吉によって、都合よく書き換えられて、「430年間、日本人は騙されている」というのが、明智家の言い分です。

以上

 

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