川端康成の愛した京都

 川端香男里先生 の京都からの恋文は、遊悠舎京すずめで2008年6月15日13:00~京すずめ学校の京都愛物語オープニング講座で、京都への想いとして講演いただいたお話です。川端先生は現在ご病床にありますが川端先生がお元気なときの恋文です。京すずめHP内には既に掲載している内容ですが、京都からの恋文として改めて掲載いたします。

講師 川端香男里先生 (財)川端記康成念會理事長
東大名誉教授 故川端康成氏娘婿
この美しい日本の自然を残し、守り、後世に、いかにして引き継ぐことができるのか

「川端康成の愛した京都」京都愛物語オープニング講座川端康成が京都をテーマとした作品『古都』は、朝日新聞の連載小説として1961年~62年に掲載されました。その頃、康成は、複数の小説を同時並行に執筆していました。『千羽鶴』と『山の音』がそれであり、また、『古都』と『美しさと哀しみと』もそうでした。驚くべき筆力と言わざるを得ません。康成の戦後の文学に係わる活動を述べます。まず、日本ペンクラブの活動です。日本は戦争に負けましたが、日本に対しては批判ばかりで、誰も日本の良さを評価しませんでした。そこで、康成は、文学という手段で平和に貢献したいと考え、熱心に活動しました。
また、康成は美術品の収集にも熱心でした。戦争直後の物の無い時代ですから、没落旧家の持つ美術品を買い集め、川端コレクションを作りました、このため、多額の借金を抱え、一生借金だらけの人生でしたが、この借金を執筆のエネルギーに変えていた節が窺えます。
『古都』は、康成が下鴨に家を借り、そこで生活をしつつ仕上げた作品です。この作品の解釈ですが、日本での評価は芳しいものではありませんでした。康成自身も「あまえっこ小説」と言っていましたが、ノーベル賞の対象となったのは、実はこの作品でした。この作品が最初に外国語で翻訳されたのは、ドイツ語でした、北欧の人々はドイツ語を理解しますので、スェーデンの人にも分かりやすく、しかも当時は、都市を主人公した小説、すなわち都市小説というジャンルがあり、これがモダンとされていました。つまり「古都」は、モダンな美しい都市小説だとして、評価されたのです。さらに、日本人自身が京都という、古都を、どのように評価しているのかという文化力も問われ、『古都』はリアリズムの世界と対比的な、ファンタジーの世界を表現し、しかも多くの寓意、比喩を含むものとして、外国で高い評価を得ることになり、ノーベル賞に結びついたと思われます。
作品『古都』で表現されている美しい双子の娘は、花の精であり、桜の老木の幹の片隅に咲くスミレの花、また、壷中の鈴虫も意味ある寓意として理解されたのでしょう。同時に、古都京都の四季の移ろいを鮮やかに捉え、京都の歳時記でもありました。次に康成と東山魁夷画伯の関係に触れます。二人の交流は、1955 年から1962 年に康成が亡くなる17 年間でした。最初は魁夷氏が康成の美術コレクションを拝見したいとの申し出があり、以来、芸術家同士の頻繁な交流が始まりました。康成が1962 年に文化勲章を受章した際には、魁夷氏よりその作品「冬の華」、これは『古都』の文庫本の表紙カバーとなっています。さらにノーベル賞受賞の際には「北山初雪」を贈られています。
この二人の間でおよそ100 通の往復書簡が交わされ、各地で展示会が行われています。
康成は、書簡の中で魁夷氏に、今のうちに京都を書いて欲しい、京都の姿はやがて消えるかもしれないと伝え、それが、東山画伯の「京洛四季」として、結実しました。
私が理事長を勤める「川端康成記念會」は、康成が全力を挙げて日本の美を守ろうと努力し、貢献を行ったことを後世に伝えたいとの思いで、設立したものであり、美術品、書簡の展示などを、全国各地で開催しています。
最後になりますが、著名な画家の安田靭彦も美術品のコレクターであり、良寛和尚の作品の収集家でもあり、康成と情報交換をしていました。
康成は、ノーベル賞受賞スピーチ「美しい日本の私」で良寛の辞世の句を引用し、人は死んだら何も残せないが、自然はあるがまま残ると語りました。この美しい日本の自然を残し、守り、後世に、いかにして引き継ぐことができるのか、これが川端康成の課題であったと考えるところです。
以上

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