FK5 葵祭

土居好江

今年の葵祭も3年連続で中止となりました。歴史は古く、1400年前、欽明天皇の時代に、国内に風雨が激しく五穀が実らなかったことから、卜部伊吉若日子(うらべのいきわかひこ)に占わせたところ、賀茂の神の祟りであるというので、旧暦4月の吉日にご神託に基づいて葵の葉、桂の葉を飾り、馬には鈴をかけて猪頭(ししがしら)をかぶって馬を走らせたところ、風雨がおさまりました。そして五穀豊穣となり国民も安泰になったのです。

この祈りの祭祀址が現在も遺されています。糺森の中にあります。 嵯峨天皇は最愛のヒメ御子、有智子内親王(うちしないしんのう)を賀茂の社に奉仕させ、以来、一身を捧げた内親王を斎王として仕えさせた葵祭は都をあげての祭となりました。

弘仁10年(819)に朝廷の律令制度の中でも最重要な恒例祭祀として国家的行事となり今日まで伝統は葵祭と云われるのは、祭の当日に御所内裏の御簾をはじめ、牛車、勅使、行列に参加した人々の冠や装束、行列の牛馬等を葵の葉で飾ったことによると云われています。
この葵の正式名称はフタバアオイという植物で、2枚の葉とその付け根に紅紫色の花が咲き、その形態は人体の両足と生殖器を象徴していると云われ、それ故、葵をかざしての葵祭は種族維持、子孫繁栄を祈る神事であると言い伝えられています。

平安建都ののち、賀茂社は山城国の守護神となり、嵯峨天皇は最愛の姫御子・有智子(うちし)内親王を賀茂社に奉仕させます。以来、一身に神に捧げた内親王を斎王として仕えさせた葵祭は、都を挙げての祭となったのです。

賀茂祭が葵祭と呼ばれるようになったのは、応仁の乱で祭が廃絶し、ようやく天下泰平の元禄年間になってからで、以後、葵祭は庶民に親しまれるようになります。
1467年から11年続いた応仁の乱で中止となり、1694年に再開します。賀茂祭が葵祭と呼ばれるようになったのは、応仁の乱で祭が廃絶し、ようやく天下泰守られています。賀茂祭が一般的に葵祭と呼ばれるようになったのは、江戸時代の元禄7年(1694)に行列の巡行が再興されてからです。
以上

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