南座のまねき上げ

土居好江


2022年11月26日の鴨川 

南座正面   2022年11月26日

 

阿国の像 四条大橋北東

阿国歌舞伎と南座

11月25日に歌舞伎公演「吉例顔見世興行」の看板「まねき」が、南座正面に掲げられました。毎年、京都の師走の風物詩です。

 顔見世興行のルーツは、約400年前、慶長8年(1603)に一世を風靡した阿国(おくに)の踊ったカブキ踊りに遡ります。関が原の戦いが終わり、激動から安定へと社会が変化していく中で、庶民は未知の世界へ興味を示し、四条河原には孔雀やあやつり芝居等を見せる見世物小屋が大人気でした。

そして、四条河原には下克上の戦乱期を生き抜いた徒者(いたずらもの)とカブキ者と呼ばれた一群が闊歩していたようです。徒者とは身元保証人のいない失業中の武士集団であり、南蛮から伝来した煙草を吸うグループで、辻斬りなど洛中の治安を脅かす存在でした。

一方、カブキ者は「傾く」(かぶく)からきた言葉で、一般常識から逸脱した奇抜な衣装で闊歩していた武士のグループのこと。この「傾く」が江戸初期の一大流行であり、ややこ踊りで11歳から人気を集めていた阿国が、このカブキ者の衣装を真似て踊ったのが歌舞伎のルーツです。(写真参照)

四条大橋の北東に立つ阿国の銅像は『阿国歌舞伎図屏風』から再現された衣装で金襴豪華な男装姿で「茶屋の女と戯れる」様を演じました。京の町衆は度肝を抜かれたそうです。

 四条河原は北野、五条河原と並ぶ、芝居の興行地となり、その後、京都所司代板倉勝重が京中の芝居・見世物の興行を四条河原に限定し、これ以外の芝居興行を禁止しました。七つの芝居小屋は櫓(やぐら)をあげることを許され、その上でたたかれる太鼓は,櫓と共に江戸時代の四条河原の特徴でもありました。

その四条南側の小屋の一つが南座のルーツで、今も南座正面の屋根に鎮座する櫓と2本の梵天は江戸時代の名残です。劇場内の舞台上部の破風は、かつて舞台と桟敷だけ屋根があった証でもあります。南座の屋根に今も残る櫓に気づく人は少ないのですが、是非、ご確認下さい。櫓に神が舞い降りると言われています。

江戸初期の歌舞伎の舞台は能舞台を踏襲していましたが、舞台の間口はどんどん広くなり、寛文年間に狂言や浄瑠璃の物語性が取り入れられると、花道が出現しました。また劇場と専属契約をした役者たちが顔を揃える顔見世が始まったのもこの頃からです。

ちなみに「吉例顔見世興行」では正面玄関に「まねき」が掲げられ、檜の一枚板で高さ180cmの大きなもので、劇場一杯にお客さまが入って頂けるよう、先客万来の意味を込めて役者さんの名前が書かれます。

この「まねき」が二枚目の男、三枚目の男の語源になっています、一枚目は座主の名前、主役が二枚目の役者、その次の役者が三枚目に掲げられるということが本来の意味です。

以上

 

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