6月15日 川端康成(6月14日生まれ)生誕120周年記念行事

第2回京すずめ大学校レジュメ
2019年6月15日

川端康成先生120周年生誕を記念して(6月14日)
川端康成先生と京都
1 川端康成先生生誕120周年をお祝いして      土居好江
映画「古都」制作の経緯と完成まで
「京都への恋文」公募事業について
2 絵本(京都昔ばなし)               大谷正美
おくどさんサミットの冊子販売について
京すずめの活動報告・・次行の活動報告をクリック下さい。

京すずめ活動報告20190615

3 出演者の声
4 映画「古都」について
5 懇談

第1回京都への恋文審査委員長 川端香男里氏講評 2010年5月30日抜粋
京すずめの方がお考えになっている京都が、京都らしくあり続けるための運動は、日本の危機、開発の危機に対するきわめて敏感な対応だと思います。
京都は日本が世界に誇る世界遺産ではありますが、アテネのパルテノン神殿のような文化遺産とは全く異なります。パルテノン神殿は現在の生活や暮らしとは全く関係ない。文化遺産として残ってはいますが、過去と現在が断絶しています。生活のにおいがほとんど残っていない。ところが、京都では暮らしや生活が残っているのです。
川端康成の小説 『古都』 は外国では 『kyoto』 と訳されて、京都という都市のガイドブックのようにして読まれていますが、歴史がそのまま現在に生きている都市・京都への憧れの気持ちを誘うようであります。
「京都への恋文」 という試みは、現在に生き続ける古都への関心を高める上で、大きな成果を上げたように思います。長くなりましたが、全体の講評を述べさせていただきました。

第2回京都への恋文審査委員長 川端香男里氏講評 2013年5月26日
これはあの1812年のロシアよりもっと大変な危機に襲われつつあるのではないかというような気がします。で、そのような時に軍備的な対応を重視する人がいるかもしれませんが、やはり国民同士がお互いに優しくなるということが何より大切と思われます。「京都への恋文」 もそういった意味で、つまり国民が互いに優しさを取り戻すという意味では、非常に重要な仕事なのではないかと思います。ちょっとこれは脱線しました。
「京都への恋文」 を主宰する京すずめの土居好江さんとの出会いについてお話しておかねばなりません。これまで川端財団の仕事で 「川端康成コレクション展」 を京都で二回させていただきました。川端康成と親交のあった東山魁夷という大画家がおられますが、その東山さんに康成は 「あなた是非、京都の今の姿をとどめるような、そういう作品を描いておいてください」 と、かなり熱心にお願いしたんだそうであります。それで東山さんが書かれたのが、例の 『京洛四季』 ですね。これは京すずめの趣旨とも合う仕事だと私は思いますし、二人の芸術家が、いわばタッグを組んで戦後一時期、日本の文化のために色々尽くそうとしたという事は、やはり現在私がやっております財団法人の仕事としても非常に重要という風に考えております。 「コレクション展」 を始めて、現在20年になりますが、その過程で東山魁夷さんが同時に大変なコレクターであったということが判明いたしました。そのコレクションが一度も公開された事がないものですから、川端康成と東山魁夷のジョイントコレクション展というのを現在展開中であります。
京都で開催した二度の 「コレクション展」 の際に講演する機会がありましたが、しばらくして遊悠舎京すずめの土居さんから 「川端康成と京都」 というような話をしてくれないかという依頼をいただきました。京都には当年106歳になる叔父もおり、友人もいて、現役教師だったころには学会でよく訪れる京都は何か身内のような感じをもっていましたが、土居さんとお付き合いしていると、より奥深い京都の中に引きこまれて行くような気がしました。 「京都への恋文」 の審査委員長を引き受けるまでに話が進んで行った経緯は私自身にもよく分かりません。何かに魅せられたように自然の成り行きでそうなったとしか言いようがありません。
「京都への恋文」 ―この発想は実に見事です。恋文とは思いの丈を語るものだと、どなたもお考えでありましょうけれども、しかし、ただこの 「恋文」 には制限があります。ハガキ一枚に入る、という事が条件です。思いの丈と言ってもどんどん喋りまくられ書きまくられては逆効果になります。日本の場合は短い文で自分の気持ちを伝えるという伝統的な文化があって、中学生や高校生もしっかりとその伝統を身に着けています。先ほど京都府知事賞を受賞された鈴木さんが、初めてお書きになったというけど、これはもう血の中に流れている伝統なのでしょう。こういうものを書けるのが日本人なんですね。日本の短詩形を、外国人に説明する時に、例えば芭蕉の一句を説明しますと、学生はキョトンとして、それからどうしたの?という表情を見せます。 「古池や~」 と一句を説明して、それで終わっちゃうとそれで作品が終わるということが彼らには理解できないのです。このように多くのものを削ぎ落とし切りつめて表現するのが、日本文化の非常に大きな特徴でしょう。

参照別紙:京すずめかわら版

「都のすがたーとどめおかまし」 より抜粋 【京楽四季】序文より

「山の見えないまちなんて、私には京都ではないと歎かれた」。

朝日新聞連載中の文化勲章受章の記者会見で 「京都を何故舞台にしたのか」
「古い都の中でも次第になくなってゆくもの、それを書いておきたいのです。京都はよく来ますが、名所旧蹟を外からなでていくだけ。内部の生活は何も知らなかったようなものです」。

(財)川端康成記念會理事長 川端香男里先生
「康成はノーベル賞受賞のスピーチ 「美しい日本の私」 で良寛の辞世の句を引用し、 「人は死んでも何も残せないが、自然はあるがままに残る」 と語りました。この美しい日本を遺し守り、後世にいかにして引き継ぐ古都ができるのか」、これが川端康成の課題だったと考えるところです。(2008年京すずめ学校 「京都愛物語」 「川端康成の愛した京都」

映画「古都」の映画化(岩下志麻主演)に際しての康成先生の感想
「京都に住み、京都を歩き、京都のものを食べ、京都をゆっくりと書きたい念願は、年々切々となる。京都を大切にするのは、京都だけではなく、国や国民の責任でもある」。

『古都』の連載の折の記者会見で
「私は書きたい代(しろ)がようやくなくなってきた。それで、いつも京都へ行く」。(中略)「日本の戦後文学の作品として『古都』は当時の政治を巡ることなく、ただ。京都の風景と人間を描くのである」。

スウェーデンアカデミーのノーベル賞受賞の評価 (2017年1月公開)
日本人の生活様式を見事に表現し、倫理観や美的意識、人々を鮮やかに描き西洋的な影響を受けていない。(50年間非公開で2017年1月に初めて公開された)
(朝日新聞PR版、昭和37年(1962年)1月13日付け「古都」愛賞にこたえて
新村出先生の長文の 「古都」 愛賞の激励の文に対して、連載中の最中、次のように一文を寄せました。
「『古都』ですが、私は体力不足のせいもあって、新聞小説は苦手、こんどもなるべく短い、可愛い恋物語を、すらすらと書こうと思いました。はじめに、モミジに寄生する二株のスミレの花をだしましたのも、じつは若い恋人の象徴のつもりでありました。(中略)
自分が良いかしらとおもうところは、北山の雨のなかで、杉の村の娘が中京の娘をかばうところぐらいでありましょうか。(中略)
ともかく、 『古都』 は私の京都小説の序の口とみていただければ幸いであります。(中略)私は寒がりでして、京の冬はつらいのです。叡山や鞍馬あたりが、深雪をかぶり、北山しぐれのふるころが…….。ふだん人ごみの嵐山なども、見物のいない真冬はやはりいいところだと思いました。(後略)」

「古都など」 『毎日新聞』(1960年1月1日)
東海道線を京都に近づくにつれて、山川風物にやはらかい古里を感じる」

柊家の紹介文  (川端康成)
京都ではいつも柊家に泊まって
あの柊の葉の模様の夜具にもなじみが深い。京に着いた夜、染分けのやはらかい柊模様の掛蒲団に女中さんが白い清潔なおほいをかけるのを見ていると、なじみの宿に安心する。遠い旅の帰りに京へ立寄った時はなほさらである。柊の模様は夜具やいかたばかりではなく、湯呑や飯茶碗などの瀬戸物にも、みだれ箱や屑入れなどにも、ついているのだが、その柊は目立たない。この目立たないことゝ変わらないことは、古い都の柊家のいいところだ。昔から格はあっても、ものものしくはなかった。京都は昔から宿屋がよくて、旅客を親しく落ち着かせたものだが、それも変わりつつある。柊家の万事控目が珍しく思へるほどだ。
京のしぐれのころ、また梅雨どきにも、柊家に座って雨を見たり聞いたりしていると、なつかしい日本の静けさがある。私の家内なども柊家の清潔な槇の木目の湯船をよくなつかしがる。私は旅が好きだし、宿屋で書物をする慣はしだが、柊家ほど思い出の多い宿はない。京の名所や古美術なども、この宿を根にして見歩いた。浦上玉堂の「凍雲篩雪図」を入手したのも、この宿でめぐりあってだ。政治家や財界人ばかりではなく、画家や学者や文学者にも、昔から親しまれた宿として、柊家は古都の一つの象徴であろう。私は京阪のほかの宿で泊まった後でも柊家へ落ちつきにゆき、中国九州の旅の行き帰りにも柊家に寄って休む。玄関に入ると「来者如帰」の額が目につくが、私にはさうである。
川端康成

以上

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